鎌利:僕は2人兄弟なんですが、僕が1歳、弟が生まれて数カ月というときに父が亡くなり、父の両親に引き取られて育ちました。

 そうやって僕の「両親」となった祖父母は大正生まれで、大変な苦労人でした。昔のことですから、誰もが十分に教育を受けられたわけでなく、両親は、読み書きがそれほどできなかった。そうなるとまあ、人にだまされるんです。契約書に書いてあることなんて何が何やらよく分からなくて、とりあえず名前を書く、みたいなことがあって、それまでの人生で大変、苦労していた。

 だからそういう苦労をさせたくない、という思いで、僕を引き取った後、5歳のときから、書を習わせたんだそうです。読み書きができれば、自分たちのような苦労をしないで済むと思って。

 そんな事情を両親から聞いたのが、ちょうど小学6年生のときで、今でもよく覚えています。うちの息子が、昨年、6年生だったんですけれど、彼の姿を見ながら、「ああ、このくらいのときに、あの話を聞いたなあ」などと、感慨にふけったりするわけです。

 そんな両親のことを思うと、悪いことなんてもう、とてもとても(笑)。到底できませんでした。普通ならば、やんちゃな若い時期でも。

 ともあれ、小学校6年生で、父母の思いを聞いたあのときから、僕の書に対する向き合い方が、変化しました。それまでは、ただ一生懸命、字を書いて、褒められたり、賞をもらったりすればうれしかったのが、「何のために僕は書を書くのだろう」「どうして僕は書き続けるのだろう」などと考えるようになりました。もちろん、嫌いじゃないから書き続けているんですが、書き続けるにしても、何かが変わった。

「つながるdocomo」より「つながらないJ-フォン」

キャリアの話に戻ると、最初に学校の先生を目指したのは、なぜでしょうか。

鎌利:田舎で「両親を養いたい」と言うと、「それなら学校の先生か公務員だな」と。みんながみんな、それしか言わない(笑)。

 自分としても、学校の先生になるのは、嫌ではなかったから、それならばなろうか、と。何の先生がいいかと考えると、好きだから書道の先生。大学は書道科に進みました(東京学芸大学教育学部書道教員養成課程を卒業)。

井上:それが、阪神大震災を機に、通信業界に目を向ける。

鎌利:一度は、学校の先生として就職しようとしたんです。大学を出てから、地元に戻ってバイトをしながら、求人を探して。けれど、書道の先生の空きって、なかなか出なくて。ある意味、非常に狭き門なんです。一方で、通信業界への興味はどこかで引っかかっていて、1年ほどもんもんとした後、一念発起、名古屋に出て光通信に就職しました。

 光通信の門をたたいたのは、携帯電話を「販売」する会社だったからです。震災で僕が感じたのは、「大事な人とつながれないこの状況をどうにかしたい」。その前提で、1990年代後半当時の通信業界の状況を概観すると、「つなげる道具(携帯電話)をもっと普及させるべきだ」と考えたのです。

 やがて、携帯電話は1人1台持つのが当たり前になりました。すると今度は「道具はあってもつながらない」という問題が浮上してきました。

 そこで、2000年に「つながらない通信会社」として有名だったJ-フォンに転職しました。あのころ、赤いロゴの会社(NTTドコモ)は、どこに行ってもつながるのに、青いロゴのJ-フォンは一向につながらなかった。そんな「青いロゴの会社に行くことが、僕の人生において重要で、赤いロゴの会社じゃ絶対ダメなんです!」と、面接でも力説しました。僕なりに選んで入ったんです。

やっぱり真面目なんですね。

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