「ぬれ甘なつと」で有名な江戸時代から184年続く東京・新宿の和菓子店、花園万頭が2018年5月に破産した。7代目として最後の社長を務めた石川一弥氏は、過去の負債の圧縮に腐心した。だが、ファブレスの新興勢力のスピードに太刀打ちできなかったことなどが原因で再建することができなかった。経営破綻に至るまでの過程や、老舗ならではの内情について、石川氏が自ら語る。
2018年5月31日、自己破産を申請しました。甘納豆の「ぬれ甘なつと」やまんじゅうの「花園万頭」は、東京銘菓として定着していました。それでも存続できなかったのはなぜですか。
石川:先代(6代目社長である父、利一氏)がバブル期に投資した負の遺産を30年以上引きずってきたのが一番大きかったですね。
僕は学生の頃(1980年代)に花園万頭の店でアルバイトをしていて、会社の状態は何となく知っていました。当時、売上高40億円に対して、有利子負債は18億円という話でした。
ところが、大学卒業後、第一勧業銀行(現みずほ銀行)に勤めてから91年に花園万頭に戻ってみると、売上高は40億円台とほぼ変わらないのに、有利子負債は50億円を超えていました。
バブル期に父が、東京都小平市にあった工場の増改築などのため、立て続けに設備投資したのが痛かった。拡大志向の時代だったのかもしれません。しかし、経営体力を考え、慎重に進めることもできたはずです。
負の遺産が足かせに
私は長男でしたから、いずれは会社を継ぐつもりでした。でも、バブル期の投資の詳細は父から知らされていなかった。そもそも老舗ならではのドンブリ勘定で実態が不透明な部分もあったのです。入社後に精査してみると、予想を超えて財務状況は悪かった。
それでも私が会社を潰したときの負債総額は22億円。かなり圧縮はしましたが、歴史の重みというか、過去の負の遺産が最後まで経営改革のネックになりました。

過去の負債は、具体的にどの局面で、経営のハンディになったのでしょうか。
石川:従来は老舗同士だけで競争していればよかった。しかし、私が社長に就いた2005年頃から洋菓子を含めた菓子業界全体で新規参入企業が増え、我々老舗との競争が激化し始めました。
新興企業の多くは製造を外部の下請け菓子メーカーに委託します。固定費がかからず身軽な分、商品開発とパッケージデザインなどの販促策に経営資源を集中し、魅力を高めてきました。
一方、花園万頭は工場やそこで働く従業員、職人を抱えていて固定費がかさみます。しかも、過去の負債がある。その中で時代の先を捉えた新商品や斬新なパッケージなどを考えていくのは大変で、新興企業とは明らかな差がありました。
また、小平工場の老朽化により、土浦工場(茨城県土浦市)への移転に10億円の費用がかかった。コストを圧縮するために、120人いた生産現場の従業員を60人に減らすなど、防戦に回らざるを得なかった。
花園万頭やぬれ甘なつとに続く、ヒット商品をなぜ生み出せなかったのかとよく指摘を受けました。しかし、その裏にはこうした市場構造の変化と固定費の負担が重い老舗の事情がある。うちに限らず、どの老舗和菓子店も直面している問題だと思います。
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