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 新たな挑戦をする際、社員が抵抗勢力になることはよくある。このカベを壊すため、邦雄氏が選んだのが、少人数で実績をつくって外堀を埋める手法だった。

 比較的、抵抗感のない2人を営業担当に抜てきした。1人は生産管理担当者。工場で工程管理をしており、職人より一歩引いた立場で、状況を判断できた。

 もう1人は現在の西山一二(かずじ)常務。東京の営業担当から本社に呼び戻されたばかりで「挑戦には前向きだった」(西山常務)という。

 狙いは的中する。邦雄氏を含む3人が試作品を持って量販店を回ると、次々に注文が取れた。

 問題は生産だ。社内の職人が作ろうとしない。現場の抵抗が激しく、事態が行き詰まると、オーナー経営者といえども諦めそうなもの。だが、邦雄氏は引かなかった。「外注先を探して生産に踏み切った」(西山常務)という。

 すると、売り上げは急拡大した。明らかな実績を前に職人も納得し、内製化にシフト。80年代半ばに約20億円だった売り上げは、数年後には約40億円に倍増した。

開拓した量販店から撤退

 変化し続けて生き残るのがDNAのベティスミス。自ら開拓した量販店への販路さえ、執着せずに手放してしまう。大手との体力勝負を避けるためだ。

 仕掛け人は大島社長。89年、衣料品卸の勤務を経てベティスミスに入り、営業から始めた。後発で参入して不振だった男性用を立て直すなど、成果を上げていた。

 その大島社長が危機感を抱いたのが、量販店との取引だ。90年代半ば、バブル崩壊後の不況に突入。量販店では価格競争が激化し、「7900円の商品が、3900円まで下がった」(大島社長)。

 大手は価格競争に耐え抜くため、生産拠点の中国シフトを始める。「体力のないうちが、大手と同じ方法で戦っても、消耗戦になって到底勝ち目はない」と大島社長は判断。90年代後半から徐々に営業を控え、2000年代初めには量販店から完全に撤退した。

 この過程で売り上げは目に見えて減り、「将来どうするのか」と社員から突き上げられた。それでも方針を曲げなかったのは「このまま体力勝負を続ければ、中小のうちが駄目になることだけは見えていた」(大島社長)からだ。変わらないリスクより、挑戦を選んだ。

 このときの胸の内を、大島社長は次のように振り返る。「少し手を伸ばして届く程度の努力では、結局会社は変わらない。自らの足で歩いて遠くのものを取りに行って、初めて変わる。会社を動かさなければならないと思った」。

 その後の量販店と、そこにジーンズを納めていた大手の苦境ぶりを見れば、大島社長の当時の判断が正しかったことがよく分かる。

ベティスミスの事業の変遷。その歩みは変化対応の積み重ねだ

 課題は、既存のジーンズショップ向けの販路に加えて、新しい販路をどう築くか。顧客の小さな声を見逃さないことで、大島社長は答えを見つけた。フルオーダーのジーンズ作りを始めたのだ。