特許戦略に失敗したモートンだが、医学界に与えた影響は大きかった。モートンが取得した麻酔の特許は、世界初の「医療特許」だった。「仁術」だった医学を「算術」に変えたのがモートンだったのだ。

 医療特許は負の側面ばかりを持つわけではない。iPS細胞の山中教授のように志高いビジョンを実現する手段にもなるし、特許で豊かな生活を望めるなら、研究のモチベーションにもなるだろう。ウェルズやモートンが生きた時代、医者は儲かる職業ではなく、多くは日々の生活を維持することで頭がいっぱいだったという。

 モートンが医療特許というパンドラの箱を開けたことで、「医学は算術」となってしまった。しかし、パンドラの箱の底に「希望」が残されていたように、医療特許が「仁術」としての医学の発展を加速させていることも確かなのだ。

 実はウェルズやモートンより早く、麻酔を使った先駆者はいる。一八〇四年、ウェルズやモートンに先駆けること四十年以上、日本の医学者である華岡青洲が、「麻沸散(まふつさん)」を使って、全身麻酔による外科手術を成功させている。アメリカ・ジョージア州の医師クロフォード・ロングも、ウェルズより早い一八四二年に、エーテルを使った麻酔を施した外科手術を成功させている。

 しかし、それらは世界に広まることはなかった。

 ウェルズが発見し、モートンが広めたことによって、人類は誰もが麻酔を受けられるようになった。しかし、麻酔はウェルズが求めていた名声も、モートンが求めていた富も与えることなく、二人共に非業の死を遂げさせることになってしまったのである。 

 いや、ウェルズは一つだけ恩恵を受けていたのかもしれない。

麻酔の発見者が得た皮肉な恩恵

 ニューヨークの刑務所で自殺したウェルズの姿は異様だった。血の気を失い奇怪な仮面を付けたような顔、口にはシルクのハンカチが押し込められ、傍らにはクロロホルムの瓶が転がっていた。ウェルズは密かに持ち込んだクロロホルムで、自分自身に麻酔をかけていたのだ。

 麻酔はウェルズに名誉も富も与えなかったが、痛みを感じることなく自ら大動脈を切り裂き、命を絶つことを可能にした。これが「麻酔の発見者」に与えられた唯一の恩恵だったのである。

■参考文献
・『エーテル・デイ ― 麻酔法発明の日』(ジュリー・M・フェンスター著、安原和見訳/文芸春秋)
・『世にも奇妙な人体実験の歴史』(トレヴァー・ノートン著、赤根洋子訳/文芸春秋)
・『賢く生きるより、辛抱強いバカになれ』(稲盛和夫・山中伸弥著/朝日新聞出版)
・『特許戦争! ―“知財立国”日本の生きる道』(段勲著/人間の科学新社)
・「医療の挑戦者たち」(https://www.terumo.co.jp/challengers/

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【本書が取り上げる12人】

◇ ニコラ・テスラ/エジソンに勝利した天才科学者の哀しい最期
◇ ホレス・ウェルズ/麻酔の発見者が詐欺師と歩んだ悲惨な末路
◇ ジョン・アウグスト・サッター/湧き出る黄金が農場主に災いを招く
◇ 金子直吉/三菱、三井を超えた名参謀 巨大商社と共に沈む
◇ 坪内寿夫/消えた資産は数千億円 幸之助と並んだ再建王
◇ 山城屋和助/日本官民汚職の原点 政商が選んだ壮絶な最期
◇ ジョン・ロー/史上最大のバブルを仕掛けたギャンブルの奇才
◇ 岩本栄之助/寄附で名を馳せた大阪商人 相場の罠に落ちる
◇ 渡辺治右衛門/「世紀の失言」が大富豪を悲劇に巻きこむ
◇ 松本重太郎/「西の渋沢栄一」が全財産を投げ出した事情
◇ 薩摩治郎八/パリ社交界の花形「バロン薩摩」の最期は建売住宅
◇ ポール・ゴーギャン/孤高の天才画家は、脱サラに失敗した証券マン