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平和に暮らしていたはずの歯科医がまさかの大転落。しかも、つまずきの始まりは人類を痛みから救う「麻酔」を発見したこと。一躍、医学界のイノベーターとなったはずが、性質の悪い助手に特許を奪われ、失意の底へ。監獄で壮絶な死を選ぶ。しかし、騙したはずの助手もまた……。実在の壮絶なドラマから「医療特許」について考察していく。

 一八四八年一月二十四日、男はカミソリで足の大動脈を切って自殺した。場所はニューヨークの刑務所。通行人に硫酸を浴びせたとして逮捕・収監されていたのだ。

 男の名前はホレス・ウェルズ(Horace Wells)。

 三十三歳の若さで自ら命を絶ったウェルズこそ、人類を痛みから解放し、医学に革命的な進歩をもたらした人物だ。ウェルズは「麻酔の発見者」だったのである。

「医学界の功労者」だったはずが……

 麻酔が発見されるまで、外科の手術室は阿鼻叫喚(あびきょうかん)の現場だった。

 患者を手術台に縛りつけ、意識のある状態でメスを入れたり、ノコギリで手足を切断したりした。激しい痛みに絶叫し、手術を受けるくらいなら死んだ方がましと、逃亡を試みる患者が続出した。

 外科医も落ち着いて手術することなどできず、手術の技術も精度もなかなか向上しなかった。

 こうした状況を劇的に変えたのが麻酔の確立だ。麻酔をかけることで、患者は痛みに苦しむことなく手術を受けられるようになった。患者を安定した状態に保ち、十分な時間がかけられることで、外科の医療技術は飛躍的な進歩を見せる。医学に革命を起こしたウェルズは、大きな賛辞を受けて当然だったが、現実は全く異なっていた。深い絶望のなか、自ら死を選ぶことになったのだ。

 ウェルズをそこまで追い詰めたのは、ウィリアム・モートンという男だった。

 この男の策略によって、ウェルズは名誉も仕事も失い、悲惨な死を遂げることになる。

 ところが、モートン自身も不遇の最期を遂げた。

ウィリアム・モートン(1819-1868)。麻酔の発見者ホレス・ウェルズを欺き、破滅に導いた男。しかし、この男もまた、非業の死を遂げる(出典:U.S. National Library of Medicine)