日経ビジネス電子版読者の皆様、こんにちは。総合南東北病院外科医長の中山祐次郎です。
郡山の街は少しずつ涼しくなり、夜、私が帰る頃には鈴虫の鳴く声が聞こえるようになってまいりました。東京にいた頃はあまり聞かなかったような気がします。陸奥(みちのく)の短い夏ですが、夏休みを取り忘れていたのでそろそろ取らねば、と思っているところです。
さて、今回はある患者さんに言われたひとことから、「がん治療は何歳の方までやるのか」というテーマを考えたいと思います。ちょうど読者の皆様の少し上か、親御さんの世代だろうと思います。
(写真:Jub Rubjob/Getty Images)
大腸がんと診断された90代の患者さん
先日のこと。いつものように外来で診察をしていると、別の病院で大腸がんと診断された方が紹介状を持っていらっしゃいました。先に受け取っていた検査結果や紹介状に一通り目を通し、その方をお呼びします。
もうすぐ91歳になろうかというその男性はよく日に焼け、がっしりとした体格でした。聞くと、農業をやっておられ、今でも毎日畑に出るのだとか。背筋もピンと伸び、ハキハキとお話になられます。70代と言われても信じそうだな……。そう思いつつ、病状を一通り説明しました。
「……ですから、基本的には手術が必要です。もしリンパ節に転移があった場合は、手術の後にがんの再発予防のために抗がん剤をやることもあります」
そう言うと、その方はしばし黙り、口を開きました。
「先生、手術も抗がん剤ももういいよ」
「えっ」
私は驚きました。
「がんの治療は受けない」
そう言う患者さんを、私はいろいろな方法で説得します。30分ほど「手術を受けなかったらどうなるか」について、やや怖いがしかし本当に起きるだろうことをお話しました。
結局、その方はご家族も交えて1週間考えた結果、手術だけは受ける、抗がん剤治療は受けないという結論に達し、治療の方針もそれに沿うこととなりました。
90代で手術をするということ
ここまでお読みになり、皆さんはどう感じたでしょうか。「90歳を超えて、つまり平均寿命を超えているのにまだ手術をするなんてとんでもない」と思われた方もいるかと思います。
実際のところ、今の病院現場では「高齢だからもう治療はしない」というシーンはそれほど多くありません。もちろん本人やご家族が望まないときは無治療という選択もあり得ますが、治療に耐えられる状態であれば、基本的には治療をすることが多いと思います。
私の専門である消化器のがんでも、90歳を超えるような超高齢者の胃がんや大腸がんといったがんは基本的に手術を行います。それは、手術をしないとかなり厳しい状況になってしまうからです。このかなり厳しい状況について詳述は避けますが、「口から便を吐く」などの症状が出るという具合です。
90歳を超えた患者さんの消化器がんの手術は、私も日常的に執刀しています。超高齢者の患者さんの手術は、もちろん気をつける点は若い方(80歳以下)と比べると増えはしますが、まず安全に行うことができます。腹の中はそう変わりません。血管も神経も組織もだいたい同じで、「年季が入ってるなあ」なんてことはないのですね。
同じ年代でも人によって状況が異なる
ただ誤解のないように申しておけば、超高齢者で持病が多い方では手術の危険性はグンと上がります。長年生きていれば、心臓や肺やその他の病気にかかっている方も多いので、その意味では超高齢者の手術のリスクは上がると言えます。
手術の後の回復についても、超高齢者の場合はゆっくりのペースになることが多いですね。「せん妄」という、一時的に自分が誰で今、どこで何をしているか分からなくなる状態(可逆的な意識の変容)が起きることもしばしばです。その結果、超高齢者の入院期間は少し長くなるでしょう。
医者が集まって議論をする学会では最近「85歳以上の患者さんの手術」というような発表が増えてきました。見ていると、だいたいは「若い患者さんとそれほど変わらずに手術が行える、しかし人によって危険性が大きく違うのでそこに注意」という結論になることが多いですね。
人によるとは言っても、超高齢者をひとくくりにすることはいささか問題があります。超高齢者の中には、冒頭の患者さんのように毎日畑仕事をされるとってもお元気な方から、脳梗塞と心筋梗塞を患って、ヘビースモーカーで在宅酸素中で、ほぼ寝たきりという方まで、人によってお元気さがかなり異なるのです。
この点は非常に重要で、それを見極めた上で、さらに患者さんとご家族の希望を併せて治療方針を一緒に考える必要があります。手術をした、がんは取れた、しかしその結果、寝たきりになった、ではダメなのです。
抗がん剤をやるやらないはどう決める?
では、高齢の患者さんに抗がん剤治療を行うことはどうでしょうか。
一般に、年齢で抗がん剤をやる/やらないを決めるよりは、その方の「お元気さ」で決めます。抗がん剤の治療をする医者が一番使う「お元気さ」の物差しは、ヨーロッパの学会が作った「ECOG PS」という下記の基準で判断します。
これで「0または1」の場合と「2~4」の場合では、抗がん剤のメニューや量を変えることが多いです。年齢よりも、この表の内容を重視します。
とは言っても、こんな簡単な評価だけでは人間の体は測れません。これに採血検査や心電図、レントゲン検査、CT検査などを用いて全身の臓器の状態を把握し、その機能の低下具合によって抗がん剤をやるかどうか、そしてやる場合にはメニューや量を考えるのです。
患者さんの「抗がん剤のイメージ」をいったん疑う
もちろん、患者さんによっては「抗がん剤は絶対に嫌だ」という方もいます。そういうとき、私は慎重になります。ああ、それならやめておきましょう、と安易に言う前に、「この方の抗がん剤治療に対するイメージは、今から受けようとしている抗がん剤治療と異なっているかもしれない」と必ず疑います。そのイメージが何十年も前のテレビドラマのものかもしれない、と思うのです。
皆さんは、飲み薬の抗がん剤、髪の毛が抜けない抗がん剤、吐き気が出ない抗がん剤なんてご存じでしょうか? 入院して行う抗がん剤治療は減ってきているのはご存じでしょうか? 最近はこういったものが少しずつ出てきているのです。
ですから、抗がん剤は嫌だと言う患者さんには、私と薬剤師さんから詳しくその薬の効果と副作用、そして治療スケジュール(月に何度通院するのか)を説明し、さらに1週間考えていただき、それからまた外来で相談するようにしています。
と、なんだか耳当たりのよいことばかり言いましたが、それでもきつい副作用が出て即中止、となってしまう患者さんもいるのは事実です。
抗がん剤の副作用は、最近では副作用止めの薬の進歩と、あらかじめ遺伝子検査で副作用がひどく出るタイプの人を判別する方法の開発により、おそらく皆さんのイメージよりだいぶマシにはなってきました。そのため抗がん剤治療を受けながら仕事を続ける方も少なくありません。
しかし、それでもまだ副作用を予測しきれない部分があります。一度やってみて、ひどく副作用が出てしまったら薬の量を減量、あるいは中止しましょう、というやり方が一般的だと言えます。
ちなみに、「手術もしない、抗がん剤もしないという患者さんに医者は興味を失うのか?」と聞かれたことがあります。拙著『がん外科医の本音』にも詳しく述べましたが、興味を失うという視点ではなく、別の専門家がカバーする領域になるという話だと私は考えています。「見捨てるのか」と言われた経験もありますが……。
医療経済からの視点は?
ここまで、医学的な視点からの「高齢者のがん治療の忍容性(薬を投与した際の副作用の程度を示したもの)」について述べました。しかしもう一点、大切な視点があります。それは、医療経済からの視点です。
医療の分野にもすでに費用対効果が導入されていますが、「何歳の患者さんまで積極的治療をするか」という議論は置き去りになっています。ですから現状では現場の医者が「さすがに〇歳だし、家族も覚悟を決めているみたいだし、もう治療はしなくていいのでは?」などと個別に判断しています。
この問題は極めて難しい問題で、細かい話ははしょりますが、最終的には「若者と高齢者の命の値段は違うのか」という議論になります。できればそんな議論はしたくないのが医者の心情ですが、しかし国全体で考えた場合、おサイフの中身は決まっているのですから、どう予算を分配していくか話し合う必要があるでしょう。もっとも、票田である高齢者を切るような政策を取れる政党が現れる気はしませんが。
生産性で考えたら、そりゃ若者にお金をつけたほうがいいような気もします。しかし、生産性で人間の命の価値を決めていけば、その向こうには弱者の存在を否定するある種の優生思想が見えてくるような気がしてならないのです。
結論は出ませんが、皆様はいかがお考えでしょうか。コメント欄でのご意見、お待ちしております。
※本記事はあくまで「胃や大腸など消化器のがん」の治療についてのお話です。その他のがんや心臓の病気などでは、だいぶ事情が違う可能性があります。
※患者さんのエピソードは、年齢・性別・疾患など個人情報をすべて変えてあります。
※本記事を書くきっかけになった、「盛岡市の会社員」さんに深く御礼申し上げます。
この記事はシリーズ「一介の外科医、日々是絶筆」に収容されています。WATCHすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。
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