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本人の病状で「まともな判断」はできた?

 本件についても、私は「どこまでやるか」問題の一部だと感じました。本件の詳細な検討は、しかるべき都の調査委員会などが行うので任せるとします。先に触れた報道を見る限り、それほど怪しいことはないのではないかと感じます。とはいえもし自分が透析中止をした医師の立場だったらどうするだろうか、と思えば、やはり透析中止=死亡という重大な結果になるのですから、ガイドラインなどを順守し、しつこいほど何度も本人と家族に説明した上で判断するでしょう。報道が真実ならば、ここは非常に誠実にやっていたと感じます。

 知人の透析専門医に、本件についてどう思う?と聞いてみました。すると、「こういうことはあまりないように思う。透析離脱の経験がある透析専門医は多くないのでは」と返答をもらいました。

 また、本件の問題点として、

  1. 透析離脱による尿毒症症状でまともな判断ができない中、本人の判断で決めて良いのか
  2. 本件の患者さんは、透析中止を考えるような終末期だったのか

という2点を指摘してくれました。

「十分な話し合い」がなされたか

 1.の尿毒症症状とは、透析をやめるとすぐに意識が悪くなったり判断能力が鈍ったり、全身がだるくなったりするなどの症状のことです。確かにそういう患者さんの意思決定はどこまで本当に本人のものなのでしょうか。2.については、別の病気のせいで透析ができない場合(透析困難症といいます)や、がんを患っていてしかも末期であるという場合などならば、終末期という議論が生まれるそうです。友人医師は、「透析のためのシャント(血液の出入り口)が作れないなどの問題だけで透析中止が選択肢に上がることについては驚いた」とも述べていました。この患者さんは、シャントの状態が悪く、新しいシャントを作るのも難しい状況だったことから離脱を申し出ていたからです。終末期ではなかったのなら、腎臓を移植したり、腹膜透析という別の方法を検討したりすることもできたでしょう。

 ここで、日本透析学会の提言から、透析をやめるかどうかの判断のときに使う意思決定プロセスの案を読んでみることにしました(「維持血液透析の開始と継続に関する意思決定プロセスについての提言」 透析会誌 47( 5 ):269~285,2014)。

 これに本件を当てはめると、やはりあまり問題ないように感じます。まあ、この提言は「十分な話し合い(が必要)」との表現が多々あり、どれくらいが十分なのかの定義がないところが弱点ではありますが。

 最後に、前出の透析専門医は「現在では認知症で自分の判断ができないような高齢者にも透析をやっている現状だ」と教えてくれました。

人の生死を決めるのは誰なのか

 何が過剰で、どこまでは最低限なのかどうか。本件で浮き彫りになったのは、この議論があまりなされていないということでした。メディアはただセンセーショナルに報じるのみです。本件の本質は、「自分の生死を決めるのは誰か」という問題です。本人なのか、現場の医者なのか、病院の倫理委員会なのか、ガイドラインなのか。透析のみならず、どんな病気やどんな治療でもこのことは喫緊の議題として、日本全体で考えねばならない話だと私は考えています。