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「どこまでやるか、が問題だね」

 経緯は、透析中の女性が苦痛を理由に透析中止を医師に申し出て、2週間くらいで死亡することを了承した上で、家族とともに中止を希望しました。その後、1度、呼吸の苦しみなどを理由に透析の再開を求めましたが、主治医により「透析再開か、苦痛を取るだけの治療か」と問われて後者を選択し、女性は死亡した、ということでした。

(写真:GYRO PHOTOGRAPHY/a.collectionRF /amanaimages)

 まずは透析という治療法について説明しましょう。透析は、腎臓の機能が低下した人に行うもの。腎臓のはたらきは、簡単に言えば血液の中の毒素など不要なものを尿にして体外に捨てること。それを透析によって代行するのです。いわば「人工腎臓」と言ってもいいでしょう。透析が必要なレベルに腎機能が低下した人に透析を行わないと、数週間以内にほぼ間違いなく死亡します。ですから、透析が必要な人にとって「透析をやめる」とは、イコール死亡するということなのです。

 本件を少し抽象化すると、こうとも言えます。「ある治療を続けなければ死亡する人に、その治療を続けなかった。その結果、死亡した」と。こういったことは、病院で医者をやっているとしばしば遭遇するのです。たとえば認知症が進んでものを食べるということが分からなくなった高齢者に、点滴をしなければ亡くなります。腫瘍から出血し続けている進行大腸がん患者さんに、止血のための内視鏡や手術を行わなければ、亡くなります。

 ですから医者同士の会議や会話では、しょっちゅう次のようなフレーズが出てくるのです。「どこまでやるか、が問題だね」と。

 それを聞くたびに私は、おいおい医者はいつから神様になったんだ、と違和感を覚えます。しかし、私もしょっちゅうこのことを考えているのです。どこまで積極的に治療を行うかという線引きは、医者が決めることなのでしょうか。それとも患者さんに一任することなのでしょうか。患者さんの意識がないときや、混濁した意識のときはどうでしょうか。

「インフォームド・コンセント」が変えたこと

 この問いは、時代によって変遷してきました。1980年代くらいまでは、ずっと長い間、医者が決めていました。しかし後に、患者さんの自己決定権が言われるようになり、だんだんとインフォームド・コンセントとして説明して同意を得た上で医療行為を行うことが一般的になりました。2020年が目前の現在では、やや行き過ぎたインフォームド・コンセント、つまり医者は治療が書かれた数枚のカードを提示し、患者さんが自ら選ぶという雰囲気になってきています。

 こうなったのは間違いなく、福島県の県立大野病院事件(妊婦が死亡し産科医が逮捕、起訴、のちに無罪)に代表される、医者にとっての医事紛争リスクの急上昇があります。訴えられるくらいなら、場合によってはちょっと質を下げてでも安全運転で、というムードはもう定着したといってもいいでしょう。「攻めの医者」、つまり処置はイチかバチかだが、うまくいけば患者さんは生きる、失敗したら死ぬ、というようなことをする医者はもういないのです。