8月25日に仏ビアリッツで開催された日米首脳会談で日米貿易協定は基本合意したが……(写真:ロイター/アフロ)
日米交渉はまたもや“守り一辺倒”になってしまったようだ。しかも、世界貿易機関(WTO)のルールに違反する協定を締結させられる可能性が高い。
日米は貿易交渉で基本合意に達し、9月中の署名を目指すことになった。交渉責任者の茂木敏充経済再生担当大臣は「国益を守り、バランスの取れたとりまとめができた」と胸を張る。はたしてそうだろうか。
内容はまだ公表されていないので報道をベースに論じざるを得ない。その報道の目は2点にばかり注がれている。1点目は米国から輸入する農産品に対する関税引き下げを環太平洋経済連携協定(TPP)の範囲内に収められるかどうか。2点目が米国による日本の自動車に対する追加関税を回避できるかどうかだ。
これは日本側がこの2点に交渉の勝敗ラインを設定したからである。しかしこうした2点を交渉の目標設定にしたこと自体、妥当なのだろうか。
まず結論を言おう。
その結果、いずれも米国の思惑通りの交渉を許してしまった。これは日本が交渉戦略よりも国内への見え方、見せ方を優先した結果だとも言える。
そしてさらに深刻な問題がある。それは大本営発表によってこの2点以外に報道の目が向かず、協定の内容がWTO違反になるかもしれないという大問題を報じていないことだ。むしろ、不都合には目を向けさせないようにしているのではないか、とさえ勘ぐってしまう。
これまでの日米通商交渉の歴史を振り返ると、今回の交渉ほど日本にとって地合いのいい、有利な交渉はなかっただろう。それにもかかわらず、なぜ、こうした結論になったのか。
以下ではそれを説きほぐしていこう。
先にカードを切ってしまった農産物
米国のTPP離脱によって、米国の農家は相対的に競争相手国と比べて日本市場で不利になっている。米大統領選を前にして、この不満を早急に解消するための成果を得たい米国にとって、競争相手と対等の水準にさえなれば不満はない。交渉前にあえて米農務長官がTPPの水準以上の要求発言をしたのも、単なる交渉戦術だ。
しかし日本はそれをまともに受け取ってしまった。国内の農業関係者の懸念を払拭するために「TPPの水準以上の譲歩はできない」と、交渉のスタート時点である2018年9月の日米首脳会談での共同声明に書き込むことに懸命になった。いわゆる「交渉でこれ以上米国に押し込まれないためのピン止め」だ。そして国内にはそれを成果として誇示した。
しかしこれは逆に、米国に対して「TPPの水準までは譲歩する」と最初からカードを切ったことになる。米国は何の代償も支払わずして、このカードを手に入れることに成功したのだ。
関税交渉は本来ギブ・アンド・テークが原則で、一方的な譲歩はあり得ない。かつてTPP交渉でも関税引き下げについては、日米間では日本の農産物関税の引き下げと米国の自動車関税の引き下げがパッケージで合意されたことを忘れてはならない。これは当時、甘利明担当大臣(当時)が米国との難交渉の結果、妥結した成果である。従って日本の農産物関税の引き下げだけという米国の“いいとこ取り”はあり得ないのだ。
自動車の「継続協議」は“気休め”か?
本来、米国も日本に対して相応の対価を差し出さなければならない。ところが今回の合意では一部の自動車部品の関税撤廃のみで、完成車の関税撤廃には応じていない。これでは「相応の対価」とは言えないのは明らかだ。
もともと、米国がTPPから離脱するという自ら招いた不利な状況を早急に解消したいことから交渉ポジションは日本が圧倒的に有利であった。にもかかわらず、交渉は最初から日本がカードを切ったせいで、立場が逆転してしまったのだ。
今回の基本合意においては、米農産物に対する関税をTPP水準の範囲内で引き下げることだけが合意されて、本来パッケージで合意すべき日本の完成車に対する米国の自動車関税の撤廃については「継続協議」になったという。前述した昨年9月の交渉当初における日本の対応から、私が懸念していた通りの結果になってしまったようだ。(関連記事:日本に巣くう、強烈な「FTAアレルギー」、2018年10月3日)
今後継続協議といっても、農産物でカードを切ってしまって交渉のレバレッジを失った後では、残念ながら“気休め”にすぎない。自動車部品の関税撤廃を米国にある程度認めさせることはできても、本丸の完成車は譲らないだろう。これは米国の思惑通りの展開だ。
WTO違反の追加関税は“空脅し”だ
自動車の追加関税の回避についてもそうだ。
米国は通商拡大法232条を活用して自国の安全保障を脅かすとの理由で輸入車に追加関税を課すことを検討しているが、日本側はこれを日本に対して発動しないとの確約を取り付けることを目標にしている。しかし米国は自動車の追加関税を交渉戦術として使っているのだ。追加関税を脅しに、対米輸出の数量規制に追い込むことはメキシコ、カナダとの交渉で味をしめたライトハイザー通商代表の手法だ。
前述の日米首脳会談での共同声明でも日本の農産物に関する“ピン止め”と引き換えに、米国の関心として、「自動車の生産、雇用の拡大」を明記させてきっちり自動車関税への布石を打っている。
しかし忘れてはならないのは、この通商拡大法232条による追加関税のWTO違反の措置である。既に米国は鉄鋼・アルミニウムについて発動しているが、欧州連合(EU)など各国からWTO違反として提訴されている。日本も本来共同歩調を取るべきであるにもかかわらず、トランプ大統領との蜜月を崩すことを恐れてか、提訴はしていない。
鉄鋼問題で実害は限定的だからといって、そうしたけん制球をきっちり投げないでいると、本丸の自動車への追加関税で駆け引きを弱めることになることは、かつて拙稿で指摘した通りである。(関連記事:日米首脳会談から読む“ギアチェンジ”、2018年4月20日)
しかもこの脅しは“空脅し”だということも忘れてはならない。このことは拙稿でもこう指摘した。(関連記事:なぜ、デジタル貿易が急浮上? 日米貿易協議の舞台裏、2019年4月18日)
「日本の中には、トランプ大統領による25%の自動車関税の引き上げを回避することが最重要課題であるので、早期に妥結した方がよいと主張する向きもある。これはとんでもない見当違いだ。自動車関税の引き上げの脅しは『抜けない刀』で“空脅し”だからだ」
「仮に自動車関税を引き上げれば、経済への打撃が大きく、株価暴落の引き金を引きかねない。(略)大統領再選に向けてトランプ大統領が重視するのが株価である限り、採れない選択だ」
問題はこうしたWTO違反の空脅しを回避するためにどれだけの代償を支払うのかだ。これは相手の犯罪行為から逃れるためにお金を支払うようなものだ。同様の脅しを受けているEUは日本が毅然とした対応をするのかどうか当然注視している。
日本の自動車業界に聞けば、商売としては当然直面している追加関税のリスク回避を優先したいと言うだろう。そして自動車の追加関税を回避することを交渉の優先目標にした結果、米国の自動車関税の撤廃という日本の本来の要求の優先度が下がって、継続協議になったのだ。
これも米国の思惑通りの展開だろう。
こうして見てくると、日本にとってどうバランスが取れているのか、率直に言って私には理解できない。設定した2点の交渉目標のうち、前者で農業関係者が納得し、後者で自動車業界が納得すればよしとしているようだ。しかし関係業界さえ納得させられれば、日本国民全体にとってバランスの取れたものだと思っているのだろうか。
完成車が含まれない限りWTO違反になる?!
もっと深刻な問題が、日米貿易協定がWTO違反になる可能性だ。関税引き下げについては、特定国に対してだけ「つまみ食い」「いいとこ取り」ができないことはかねて指摘してきた通りだ。(関連記事:日米通商交渉の主戦場「自動車の数量規制」はなぜ“毒まんじゅう”か、2019年1月30日)
特定国への関税引き下げは、「実質的にすべての貿易」について関税引き下げになるものでなければできない。それがWTO協定上のルールだ。米国の農産物に対してだけ関税を引き下げるといった“つまみ食い”は許されないのだ。それは日本が物品貿易協定(TAG)と呼ぼうが関係ない。
「実質的にすべての貿易」とは国際的な相場観があって少なくとも9割以上をカバーしているのが通常だ。TPPでは日本は95%、離脱前の米国は100%の関税撤廃率であった。途上国に対しても、例えば東アジア地域包括的経済連携(RCEP)を見ると、85%以上の関税撤廃を要求している。
日本の対米輸出を見ると、ざっくり言って、自動車の完成車3割、自動車部品2割、その他工業品5割だ。報道によると完成車は先送りで自動車部品の一部とその他の工業品の多くで関税を撤廃するという。それでは関税撤廃率は6〜7割といったところだ。完成車が含まれない限り、明らかにWTO違反となるのだ。
それでもあえて締結するのは大問題だ。
今後日本はアジア諸国をはじめ途上国と自由貿易協定(FTA)を締結するに当たって、およそ高い関税撤廃率を求めることは難しくなる。米国相手のときだけ基準を変える「二重基準だ」との批判も免れない。各国は日本の対応を厳しい目で見ていることを忘れてはならない。
数量規制に比べれば同じWTO違反といっても違反の程度は軽いとでも言いたいのかもしれないが、そういう問題ではない。
貿易の国際秩序が崩壊しかねない危機に直面している現在、ルール重視、WTO重視を主導すべき立場にあるのが日本だ。またこれまでの先人の努力もあって、そういう国際的な評価も得つつある。WTOを軽視している米国が違反するのとはわけが違う。
トランプ政権との蜜月関係を維持することはもちろん大事だ。しかし、短期的な日米関係のために中長期の日本の国際的な立ち位置を見失ってはならない。
報道によると、先日の自民党会合での説明で、この問題を問われると、茂木大臣は事務方に説明させている。メディアも大本営発表に従って、WTO違反かどうかについてはほとんど報道していない。
この問題を役人レベルの技術的な問題だとしているならば大きな間違いだ。「国内の業界が納得すればよい」「国内的な見せ方で乗り切ろう」という国内政治だけでは本質を見失う。日本の通商政策の根幹を揺るがす問題なのだ。
自動車の追加関税の確約が得られるかどうかばかりに目を奪われずに、メディアも国会もしっかりこの点をチェックしてもらいたい。今後内容が公表されてからすぐに協定署名の予定になっているだけに、今こそ、この問題をきっちり議論しておく必要があるだろう。
WTO違反でないことは、交渉のバランスが取れているかどうかを議論する以前の、大前提の必要条件なのだ。日本が大きな財産を失うとともに、将来に大きな禍根を残すことにならないよう願うばかりだ。
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