専制と民主、どちらの対策が有効か
新型コロナウイルス(COVID-19)のまん延とその対策について、昨今の中国では「これは専制と民主のどちらが優れた政治体制か、判断する絶好の機会だ」といった趣旨の議論が出てきている。言うまでもなく、中国と日本の感染対策を比較してのことである。
中国では発生地の武漢を含む湖北省を除けば、感染拡大の抑制にほぼ成功しつつあるかに見える。中国国内では積極論が勢いを増しており、街には活気が戻りつつある。それにともなって逆に関心を高めているのが日本での感染の広がりだ。日本社会の危機意識の薄さ、根拠なき(と中国人が感じる)楽観に中国の人々は驚き、中国と日本の政治体制の違い、人々の行動様式の違いの比較といったあたりまで話題は広がりつつある。
一言でいえば、人々の「社会不信」「他人不信」を管理すべく、専制政治、「監視国家」路線を取る中国と、少なくともこれまでは社会の信頼感や人々の善意に立脚してまがりなりにも先進国として繁栄してきた日本の、果たしてどちらが有効に対処し得るのか。そんな観点が広がり始めている。
活気を取り戻した繁華街
2月23日現在、発生地の武漢が属する湖北省を除けば、他の地域ではオフィスや工場も再開し、ショッピングセンターや路地の市場(いちば)なども次々とオープンして、特に週末には大勢の人出でにぎわうところも出てきた。
筆者は現在、東京にいるが、江蘇省・無錫にある妻の実家に聞いたら、市内の名刹・南禅寺の門前町は2月22日(土)の週末、1カ月近かった事実上の軟禁生活に飽き飽きした人たちがどっと繰り出し、大にぎわいだったそうである。
実際のところ、中国とてこの先、感染の拡大を完全に抑え込めるのか、それはわからない。しかし、少なくとも現時点では湖北省以外への大きな拡大はほぼ防いでいる。2月18日には、感染の本格的拡大以降で初めて上海市や広東省深圳市で新規感染者がゼロになり、その後もゼロを含む一桁台で推移している。
つまり、武漢で発生した感染が深刻化した時点で、とんでもなく強引な手法で他地域との交通を遮断し、数億人の人々を事実上の自宅軟禁とし、2~3週間の経過観察期間を過ごさせた。その期間中、不穏当な言い方をすれば、発症すべきは発症させ、徹底的に隔離する。この経過観察期間を終えても何の症状もない人は、感染がないものとして今回、「放免」の運びとなった――ということである。
9500万人の党員組織を総動員
こうした政治の決断を実行するために、中国政府とその意思決定者たる中国共産党は、党員9500万人といわれる巨大組織を総動員し、スマートフォンによる位置確認システムやアリペイ(支付宝)やウィーチャットペイ(微信支付)といったオンラインペイメントの利用記録、全国の監視カメラ網と顔認識システムなど、ハイテク手段を総動員、非常時とあって民間企業もそれに積極的に協力し、徹底した個人の行動管理を実行した。このあたりの話は、広岡延隆上海支局長の記事(新型コロナウイルス、感染者との濃厚接触も分かる中国ITの監視力)に詳しい。
スーパーに行く人数も制限した
著者の中国移動通信の携帯電話で表示させた「疫情期間行程査詢」のページ。携帯電話の通信記録から、過去60日以内に自分がどこにいたかが表示される。スマホのアプリか携帯電話のショートメッセージで自分の身分証明書番号(あるいはパスポート)の下4ケタを入力すると簡単に見ることができ、違う都市に入るときなどにこの画面を表示して自分がどこにいたかを申告する。海外でのローミングは記録されないらしく、ずっと上海にいたことになっていた。
近くのスーパーに買い物に行くのも「1家族から3日に1回、1人だけ」、それも居民委員会(党の基層組織が指導する地域の自治会みたいなもの)の許可証なしではマンションの敷地から出られないといった徹底ぶりで、上海や北京のような大都会でも街からまるで人気(ひとけ)がなくなった。
現時点での抑え込みの「成功」は、こうした強権の結果である。そのような状況の下、武漢や湖北省を除く中国の各地では一種の「戦勝気分」みたいなものすら漂い始めた。そして、その「成功」が国家体制の強さによるものだというストーリーが、もちろん全ての人ではないが、かなりの説得力を持って人々の間に共有されつつある。
そして、現時点で、その「体制優越論」の有力な論拠になっているのが、わが日本である。
日本の現況についてはご承知と思うので、詳述しない。日本国内における感染の拡大阻止は、まさに正念場である。今後どうなるかは現時点ではわからない。結果的に感染は一定の範囲内におさまり、なんとかしのぎ切れる可能性もあるだろうし、一方、非常に深刻な事態に陥る可能性も決して小さくはない。
私は日本の政府が無能だとも、何もしていないとも思わないし、日本は日本なりの対策を一生懸命にやっていると考えている。企業や個人も個々の差はあれど今回の新型肺炎に強い危機感を持って各自がさまざまな努力をしている。
しかし、こうした日本人の対策や危機感は、中国人的感覚からすると、甚だ心もとないというか、不安だらけのものに映る。感染が日本国内に広がる前、中国では日本の支援に対する感謝の声であふれ、日本に対する関心や期待が高まっていただけに、落差は大きい。
本気で「怖い」と思っていない日本人
中国人の妻と共に東京にいる筆者のもとには、2月半ば以降、中国の友人たちから「日本は危ない。早く中国に戻ってこい」との連絡が続々と来るようになった。留学や仕事などで日本に滞在している中国人の間からは「日本は何も対策がなくて怖くて怖くて仕方がない。どうして皆、何もしないんだろう。中国に帰りたい」といった悲痛な声が聞こえてくる。
中国と日本の社会の対応の差を見ていると、その最も大きな違いは、本気で「怖い」と思っているかどうか、だと感じる。中国政府の「強権」が現時点で感染の拡大を抑制したことは明らかだが、それが機能したのは、もっと言えば、政府が強権を発動することができたのは、人々が本気で「怖い」と思っていたからだ。逆に言えば、日本で政府や企業が大胆な決断がしにくいのは、多くの人が本気で、心の底から「怖い」と思っていないからである。
どうしてこのような差が出るのか。中国人は本気で怖がっているのに、なぜ日本人は怖がらないのか。その根底には国家や社会、組織、さらにそれらが運営される仕組みや制度、ルールといったものに対する認識の違いがある。
歩行者の前で車は止まるか
昨今のこうした状況を見ていて、思い出したエピソードがある。
以前、上海から親しい友人家族が東京にやってきて、一緒に街を歩いていた。交差点で歩行者用信号が青になり、私が歩き出そうとすると、傍らにいた友人の奥さんが突然、すごい力で私の腕を引っ張り、歩道上に引き戻した。私は驚いて「何が起きたのか」と周囲を見回すと、1台の車が交差点を左折しようと、ゆっくり進んでくるのが見えた。
この車は道を渡ろうとしている私たちを見て、手前で停止する。これは当たり前のことである。酒酔いや居眠り運転での暴走といった事態を除けば、常識的な速度で交差点を左折してくる車が、そのまま歩行者をはねるという話は、まず起こらない。だから交差点で歩行者用信号が青になれば、私たちは車が近づいてきても、そのまま渡る。車は止まるものと誰もが信じているし、実際、ほぼ100%、車は止まるのである。
しかし、中国の社会はそうではない。法律の規定はともかく、日常の常識では車のほうが強いのは当たり前であり、どんな人間が運転しているかわからない。道路の横断は、たとえ歩行者用信号が青であっても、車の通過を待って渡るものである。歩行者に道を譲る運転者はごく例外的であり、車が止まるものと決めて天真爛漫に道を渡れば、はねられてしまうか、運転者に罵倒されるのが関の山である。
(最近、上海などの大都市の主要交差点には道を横断する歩行者保護のための監視カメラと車のナンバーの認識装置が設置され始めた。おかげで車は歩行者の前で停止し、道を譲るようになった。これは極めて画期的なことで、まだ慣れずにこっちが戸惑ってしまう。これも一種の「強権」である)
つまり、先の東京の交差点で友人の奥さんが私の腕を引っつかんだのは、車が横から近づいてくるのに(それが止まることを前提に)道路を渡り始める行為は無謀と言うしかなく、そんな恐ろしいことはできない――という観念の結果である。しかし日本人たる私は「車は止まる」という観念の下、怖がらずに道を渡ることができる。これが社会とか、制度、ルールに対する認識の違いということだ。
「社会不信」「他人不信」の中国
ここには、仕組みとか制度、ルールといったものに対する信頼感が低く、頼れるのは自分の判断のみ――と考える傾向が強い中国社会と、それらのものにとりあえず信を置き、まず「みんな一緒に大きな船に乗る」傾向が強い日本の社会との違いが鮮明に表れている。
個人差があるのを承知の上で、ざっくりひとくくりにして言えば、中国ではこういう危機が発生したとき、まず人々が考えるのは「誰も信用できない。誰かの言っていることは全て一種のポジショントークであって、本当のことではない。自分の身を守るのは自分(と親族、信頼できる友人)しかない」と考える。一種の「社会不信」「他人不信」が根底にあるので、常に最悪の場合を想定して行動する。
そして、根深い「社会不信」「他人不信」がベースにあるが故に、その社会で秩序を維持し、とりあえず身の安全を守れるようにするには、強い権力による統制を受け入れる。どんなに不自由でも、無秩序よりはマシだからである。だから、誰だって自宅軟禁など望んではいないが、そうでもする「強権」がなければ、世の中、本当にどうなってしまうかわからない。それこそ怖くて怖くて仕方がない――という感覚になる。
「監視国家」の優越性を証明していいのか
前述したような全土の監視カメラ網や顔認識システムでの行動管理、アリペイなどのオンラインペイメントによる個人の支出入に対するチェック、個人信用情報の格付けの仕組みなど、「監視社会」としての中国に昨今、日本でも関心が高まっている。私自身も、そのような事柄に関する文章を過去に書いてきた。
個人のプライバシーという観点から言えば、こうした「監視システム」が大きな問題をはらんでいることは事実だし、それが権力体制、既得権益の維持に供されていることは明白だ。しかしながら、それが中国の社会で広く導入され、定着しているのは、単に権力が横暴だからではない。それを(喜んで、ではなくても)受け入れる素地が人々にあるから、社会に定着し、機能している。善悪はともかく、その事実は軽視すべきではない。
もし、仮に今回の新型肺炎がこのまま中国では収束に向かい、そして――想像したくないことだが――日本がさらに悲惨な状況に陥るようなことにでもなれば、そのシステムの優位性が目に見える形で世界に印象付けられるだろう。
日本の社会は今回の新型肺炎に関しても、冗談めかして言えば、「黙っていても車は止まる」と、なんとなく考えているようなところがある。今回、本当に車が止まるかどうかはわからない。もしかしたら日本人の自律性の高さで、政府が強権を発動しなくても、マスクや手洗いの励行、自発的な自宅待機といった要因で、車が止まることもあるかもしれない。心の底から止まってほしいと思うが、止まらないかもしれない。
そうなったら、やはり「強権」は必要だ――という議論に当然、なるだろう。正直言えば、私も、条件付きではあるが、そう思い始めている。デジタル化、グローバル化が破壊的な勢いで進み、時代は変わってしまったのだ。
ただそのときに、「強権」そのものをいかに私たち自身の手で管理するか、その具体的な方法論が求められる。そもそも今回の感染の発生源は中国であって、専制政治の隠蔽体質がなければ、ここまで拡大していなかった可能性が高い。少なくとも現状の日本では「民主主義」が機能しているのだから、政治家を罵倒しても、その政治家を選んだのは自分たちであって、意味がない。
もし権力の有効なコントロールを私たちが実現できなければ、「専制と民主のどちらが優れた仕組みなのか」という議論に対して、有力な判断材料を提供することになるだろう。「社会の信頼感や人々の善意という前提の上に、まがりなりにも繁栄してきた『日本という仕組み』」が、果たして生き永らえることができるのか、今回、その答えが出てしまうことになるかもしれない。
そうだとするならば、われわれ日本人としては、国家の強権なしでも個人や民間の自律性によって悲惨な事態の発生を抑え込み、世界に見せてやるという気概を持つべきだ。これは民主国家日本国の興廃を賭した闘いになる。
がんばろう、日本!
この記事はシリーズ「「スジ」の日本、「量」の中国」に収容されています。WATCHすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。
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