
「日銀」という単語を含む新聞記事の数を、1985年以降について新聞記事検索ツールを用いることにより、暦年ベースで調べてみた(検索対象は朝日新聞、産経新聞、毎日新聞、読売新聞、日本経済新聞の5紙)。

年間の該当する記事数が1万を超えたのは、一度だけ。総裁に黒田東彦氏が就任した日銀が異次元緩和を4月に導入した2013年である(1万63件)。円安・株高が急速に進行し、市場は沸いた。「アベノミクス」や「黒田日銀」に、最も勢いがあった年だった。
ちなみに、それまで最高記録だったのは03年(9704件)。イラク戦争が起こった年である。円高・株安が進み、日経平均株価は一時8,000円割れになった。この年に日銀総裁に就任した福井俊彦氏は、日銀当座預金残高目標引き上げなどの金融緩和を進めた。また、それより前の最高記録は1998年(9407件)。故速水氏が日銀総裁になった年である。
黒田総裁の在任期間に話を戻すと、ロケットスタートだった「日銀」という単語を含む新聞記事数は、翌2014年から減少。15年は5564件にとどまった。これは94年(5396件)以来の低水準である。異次元緩和の限界が露呈する中で、世の中の関心は低下した。
こうした流れの中、日銀が16年1月に選択したのは、マイナス金利導入というサプライズだった。金融政策運営のターゲットを量から金利へと、突然戻す措置である。だが、イールドカーブがフラット化し過ぎたことが問題視され、同年9月には早くも方針転換。長短金利操作(イールドカーブ・コントロール)が導入された。そのほか、この年の7月にはETF買い入れの大幅増額も決定された(年間約3.3兆円から約6兆円に)。金融政策が大きく動いたことが記事数の急増につながったわけだか、結局、1万件の大台には届かなかった。
17年以降、「日銀」という単語を含む記事数は、じり貧の流れに戻った。17~19年に3年連続減少。新型コロナウイルス危機が発生した20年には前年比小幅プラスになったものの、日銀によるコロナ対応の金融緩和策は、この危機における主役ではあり得なかった。翌21年に上記記事数は3,199件にとどまったが、これは1986年以来の水準である。
黒田日銀が長期金利の変動許容幅拡大を12月に行った22年に、上記記事数は増加して5,206件になった。黒田総裁の後任問題を取り上げた記事も少なくなかったように思う。日銀総裁が交代した98年、03年、13年は上記の通り、新聞記事数で見る限りは、日銀の動きが世の中でかなり大きな関心事になった。そして23年は黒田総裁の任期が4月8日に満了し、日銀が新たな体制に移行する年である。
政府は2月14日、次期日銀総裁候補を植田和男氏(元日銀審議委員)、次期副総裁候補を氷見野良三氏(前金融庁長官)および内田眞一氏(日銀理事)とする人事案を、衆参両院の議院運営委員会理事会に提示した。すでに10日時点で報道されていたのと同じ顔ぶれである。
岸田首相による今回の日銀人事案の自己評価に関しては、「最強のチーム」だという発言が伝わっている。関連する報道は、以下の通りである。
■「ふたを開けてみたら、『こういうことか』と分かるはずだ」。人選をほぼ終えていた2月初旬、周囲にこんな胸中を明かしていた(2月11日付 産経新聞)
■「国際性とマーケットとの対話能力の二つを満たした人を見つけた」。首相は8日夜、東京都内で会食した自民党の麻生副総裁、茂木幹事長に植田氏の名前こそ明かさなかったものの、満足そうに語った。(2月11日付 読売新聞)
■「最強のチームだろう」。首相は10日、植田氏を新総裁に充て、旧大蔵省出身の前金融庁長官・氷見野良三、日銀プロパーの内田真一の両氏が副総裁として支える体制案について、周囲にこう語った。(同上)
■関係者によると、首相は植田氏について「黒田氏の路線を継承する人物だ」と語っているという。安倍政権が進めた経済政策「アベノミクス」を急激に修正すれば、自民党保守派を刺激しかねないだけに、「路線継続」をアピールする狙いがあるとみられる。(2月10日付 時事通信)
2月15日の衆院予算委員会で岸田首相は、次期日銀総裁人事案について、「リーマン・ショック後は主要国中央銀行トップとの緊密な連携や内外の市場関係者に対する質の高い発信力、受信力、こうした点が格段重要となってきている点も十分考慮して人選を進めた」「国際的にも著名な経済学者であり、理論・実務両面で金融分野に高い見識を有する植田和男氏を最適任と判断し、日銀総裁の候補者として選任した」と説明した。
首相はさらに、大規模な金融緩和の副作用について「検証を行っていくことが重要だ」とも述べた。異次元緩和はこのままではまずいという問題意識を抱いていることがうかがわれる。「首相は以前から『日本だけがいつまでも(異次元緩和を)続けていくわけにはいかない』と語っていた。その時期について『次の総裁が考える。そしてそれを決めるのは俺だ』と述べていた」という(2月15日付 朝日新聞)。
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