
まもなく幕を閉じる平成は、どのような時代だったのだろうか。人生の節目になったイベントや思い出深い出来事が人それぞれに、いくつも思い浮かぶだろう。ここではエコノミストの視点から総括してみたい。
「1.57ショック」とほぼ同時にバブル崩壊
エコノミストの立場から平成という時代を考える場合、振り返ってみて非常に重要な意味があったのが、平成元年(1989年)の日本の合計特殊出生率が丙午(ひのえうま)だった昭和41年(1966年)の1.58を下回り1.57まで低下していた「1.57ショック」である。
平成2年(1990年)6月に人口動態統計から明らかになった。人口減・少子高齢化が進む厳しい時代に突入していく日本の将来像が、この時点で人々の知るところとなったわけで、政府が危機感をテコにしながら人口対策を強力に推進していれば、現在の日本の経済および社会の姿は、良い方向で大きく違っていたはずである。
ところが、平成元年の年末(終値3万8915.87円)をピークに、日経平均株価は急落した<図>。さらに、不動産価格も大きく下落するという巨大バブル崩壊の衝撃によって、日本経済は暗くて長いトンネルに入ってしまった。大規模な公的資金の投入などによって銀行の不良債権問題への対処が進み、金融システムにまつわる不安感がなくなるまでに、相当な時間が必要だった。

日本経済の「血液循環」を早急に回復させることが経済政策の焦点になり続ける間、人口の問題が顧みられる機会は大きく減り、長い時間が過ぎ去ってしまった。観光客誘致・少子化対策・女性や高齢者の活躍推進というメニューだけでは、人口面からの日本経済の「地盤沈下」を食い止めるのは、物理的にもはや困難である。
移民と呼ぶかどうかはともかく、日本国内に長期滞在する外国人を増やすことが必要不可欠である。そうした政策展開の「入り口」になるとみられる改正出入国管理法が施行されたのは、平成31年(2019年)4月。平成が終わるまで、あと1カ月となってからだった。
結局、日本経済は平成7年(1995年)に大きな転換点を通過し、その後現在に至るまで「地盤沈下」を続けることになったと、筆者は整理している。5年ごとの国勢調査ベースで、コア人口とも呼ばれることがある生産年齢人口(15~64歳)が約8717万人でピークをつけたのも、GDPデフレーターが特殊要因でかさ上げされた時期を除いて前年同期比マイナスに沈んだままのデフレが始まったのも、日銀が円高対策で低め誘導を実施して短期金利が0%台の超低金利に突入したのも、すべて平成7年である。
冷戦終了後の日本の「立ち位置」
平成は、戦後世界秩序の劇的変化に日本が揺さぶられた時代でもあった。
平成元年(1989年)11月に突然、ベルリンの壁が崩壊した。その5年ほど前、大学生だった筆者は西ベルリンから東ベルリンに入って観光するなどして東ドイツという国の監視体制を実体験していただけに、この出来事には驚愕(きょうがく)した。同年12月にはマルタで米ソ首脳会談が行われ、冷戦の終結を宣言。2年後にはソビエト連邦が消滅した。
しかし、ロシアなど旧社会主義圏の多くの国は、資本主義の下での経済復興や政治の安定確保に苦労した。その間に経済パワーとして台頭したのが、故・鄧小平氏の下で経済の「改革開放」を旗印にしながら躍進した中国だった。その経済規模は日本を抜き去り、米国に次ぐ世界第2位に。平成における日本の国際的な存在感は、昭和に比べると明らかに薄れ、「ジャパンパッシング」という言葉がささやかれたことさえあった。
新しい令和の時代に大きなテーマになり得るのは、太平洋を挟んで潜在的対立関係にある米国と中国のはざまで、日本がどういった外交安全保障政策をとっていくかという点である。
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