(写真:Shutterstock)
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 「今まで優しかった人々が、殺気立って、とにかくイライラをぶつけてくる。『次の入荷はいつ?』『いつもないじゃない』『1個くらい取っておいてよ』と電話でも、対面でも何度も何度も聞かれ、その度に『すみません』『申し訳ありません』と頭を下げている。人が鬼に見える。正直ノイローゼ気味だ」――。

 これは新型コロナウイルス感染拡大が本格化した2020年3月5日、トイレットペーパーを求める人たちが殺到した、あるドラッグストアの店員さんが発信したツイートである。

優しかった人々が利己的に振る舞う

 「ああ、そんなことあったね」……、と思い出した人も多いであろう。

 あの時の「私」たちは異常だった。誰もがそう考えたし、私もその1人だった。
 新型コロナという、未知なるものに不安を感じたことで、「私」たちの心が汚染されてしまったのだ、と。目に見えない恐怖にさらされたとき、利己的な言動が引き起こされるのは、人として当然の反応だ、と。

 しかし、“あの時”の「私」たちの言動は序章にすぎなかった。

 「何で受診できないの!」
 「何で予約取れないの!」
 「何かあったら責任取れるの!」
 と、発熱外来の予約が取れず、看護師さんや受付事務の人に不満を爆発させ、罵声を浴びせ、

 「親が入院してまだ1週間しかたってないのに、退院を迫られた! 軽症だから問題ないって言ってるけど、家に戻してなんかあったらどうしてくれるんだ!」
 「重症化リスクがないから入院できないって言われた。家に帰ったら子供にうつるじゃねえか!」
 などとSNS(交流サイト)で発信し、それに多くの人たちが共感するコメントを書き込んでいる。

 2年半前と一緒だ。「今まで優しかった人々」が、極めて利己的に振る舞っている。

 健康保険証さえあれば、「いつでも」「誰でも」必要な医療サービスを受けられる国民皆保険制度の良さが、逆に混乱を招いたのか?

 いやいや、そうじゃないでしょう。少なくとも私たちはこの3年近いコロナ禍で、医療というリソース(資源)が無限ではないことを学んだはずだ。

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