さて、これをどう解釈するか?

 海外では研究者=博士号取得者であり、修士であることはめったにない。しかし、日本では博士号がなくても研究者として研究をリードするリーダーになれるということなのだろうか。かつて日本の企業では修士で採用され、その後論文博士になった人たちが多かった。ところが、ご覧のとおり、1990年代以降、論文博士の数も割合も減少している。

出所:文部科学省科学技術・学術政策研究所(NISTEP)「科学技術指標2021」
出所:文部科学省科学技術・学術政策研究所(NISTEP)「科学技術指標2021」

 青色発光ダイオードを開発した中村修二博士は、大学院修了後、日亜化学工業に就職し、米フロリダ大学へ留学したものの、研究者として見てもらえない悔しさから博士号を取得した。2019年にノーベル化学賞を受賞した吉野彰博士は、大学院修士課程修了後に旭化成に入社し、05年に大阪大学から論文博士号を授与されている。

人はそれを「夢」と呼ぶ

 つまり、論文博士を輩出する機会がかつての企業にはあった。しかし、だんだんとその機会が減った。
 たかが博士、されど博士。博士号は足の裏の米粒のようなものだ。取らないと気になるけど取ったからといってそれだけで腹が満たされるわけじゃない。しかし、前述した通り、世界のレフェリー付きのジャーナルで認められる博士論文を仕上げるプロセスの中にこそ、知の体力を鍛える「壁」がある。

 日本の研究力が低下している原因は……、研究者の力を最大限に引き出す環境がないことが最も大きいと思う。

 なぜ、これまでノーベル賞を受賞した研究者たちが、日本は自由に研究ができない、研究する環境が整っていない、このままでは日本は沈没する、といった苦言を呈してきたのか?

 人間の能力は、ニンジン=カネをぶら下げて走らせさえすれば、引き出されるほど単純じゃないのだ。はやりのものをやるための投資より、やりたいものができる投資にこそ未来がある。

 そもそも、何かを「やりたい!」という感情は、自分の意志とは関係なく、無意識に湧き立つモノだ。この人間の直感こそが、まさしく常識にとらわれない、根源的かつ自由な思考であり、困難を乗り越えるパワーのトリガーになる。
 人はそれを「夢」と呼ぶのだと思う。きっと誰かを幸せにする、きっと社会の役に立つ、という「夢」だ。ときには、どういう風に役立つかは分からないけど、絶対に役に立つという熱い思いだけのときもあるかもしれない。無駄と思われていた人やモノが、あるとき最強の切り札になることだってあるし、それまでの無駄があるからこそ、最後の最後で価値が出ることだってある。