(写真:Shutterstock)
(写真:Shutterstock)

 あそこまで“えげつない発言”を見たのは、正直、初めてだった。
 「不適切」というレベルをはるかに超え、口にするのもおぞましい。どうしたらあんなに非道なことができるのか。当時、問題にならなかったのが不思議なほど。1990年代といえば、学校の“いじめ”で命を絶つ子供が相次ぎ、社会的問題になっていた時代である。その渦中で、「自分の名前」で仕事をしていた「いい大人」が、まるで武勇伝のごとく「障害者いじめ」をメディアで語ったのだ。

 ただ、その一方で“リトル小山田圭吾”のようなものを心の奥底に秘めた人たちは、決して少なくない。

なんとなく「許してきた問題」

「おまえみたいなアホ、義務だから雇っているだけだよ」
「何もしなくていいよ。どーせ何もできないだろ」
「トイレ掃除くらいできるだろ? カネ払ってんだから、やれよ」
「いいよな~。来るだけでおカネもらえるんだからな。おれも障害者になろうかなぁ」

 これらはすべて私のインタビューで得られた「実際の言葉」だ。
 職場の上司や同僚が、「障害者雇用」という枠組みで働く“仲間”に浴びせた、心ない言葉のごく一部である。

 小山田氏の発言について、「時代背景を考えないと」だの「過去の発言のことをいつまで言われるのか」だのと、「時代や社会」のせいにする意見が散見されたが、いまだに「障害者へのまなざし」を変えられない人たちがいる。

 東京五輪は、開催に至るまですったもんだ続きだったけど、日本社会が「なんとなく」許してきた言動の是非を、世界レベルで考えるいい機会になったように思う。

 はるか遠い日の出来事のように思える「森喜朗氏の女性蔑視発言」然(しか)り、演出総括者の「容姿蔑視発言」然り、はたまた「まだあったか!」とあきれさせた演出担当の「ホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)ネタ」然り、そして、(あまりに卑劣すぎて、もう名前も書きたくない)某氏の「障害者いじめ問題」然りだ。

 これらはすべて世界的な基準で考えれば、言い訳する余地などみじんもない「絶対に許してはいけない」問題である。なのに、いずれの問題に対しても、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会の“感度”は低く、“彼ら”を擁護する声も後を絶たなかった。

 そういった意味でも、日本社会が「なんとなく」許してきたこれらの問題の罪を、今、考えないでどうする? 今こそ、ちゃんと向き合い、内省し、学び、考え、具体的な行動につなげる必要があるのではないか。

次ページ 日本に差別はない?