先日、生活保護の申請件数が09年のリーマン・ショック以来の増加に転じ、コロナの影響が長引く状況下での厳しい暮らしぶりが浮き彫りになった。生活に困窮する人の多くは、「まさか自分がこんなことになるとは……」「自分が社会的弱者だったとは……」と嘆く、コロナ以前は、私たちと同じ日常を過ごしていた人たちである。

 思い起こせば、08年の年末に日比谷公園につくられた「年越し派遣村」で貧困が可視化された当時、批判の矛先は非正規が増えるきっかけをつくった政権に向けられた。これに年金問題も加わるなどして、09年8月の衆議院選挙では69.28%という高い投票率で、民主党が戦後最多の308議席を取り、政権交代を実現。結果的に民主党政権はすったもんだ続きだったけど、まだあの頃は社会に、「弱い立場の人を最優先で救済する」という人間倫理の根幹が共有されていたように思う。

世間の「冷たい眼差し」

 実際、非正規労働者を守るための法整備が進められ、やむを得ない事由がなければ、契約期間満了まで「解雇できない」とする労働契約法の改正や、同じ会社で契約期間が5年を超えた場合は、無期雇用に転換することなども義務付けられた(本人の申し出による)。

 もっとも、法律の隙間をつく“あざとい解雇”は後を絶たなかったし、正社員化が進む一方で、女性やシニア層など「新しい労働力」の多くは非正規で雇用され、非正規で働く人たちは増え続けた。
 しかし、それでも、国が「非正規の不安定さ」を議論の俎上(そじょう)に載せて、動いたことは確かだった。

 一方で、今回はどうだろうか。コロナ禍で、「雇用の調整弁」だったことが露呈し、非正規のような不安定な雇用形態は、人間の尊厳を満たすには十分ではないことがわかったはずだ。にも関わらず、非正規雇用への対応は冷たい。生活に困窮する人たちへの貸付制度はできたけれど、自動的に渡されるものではない。政府は「生活保護を申請してください」と積極的にアピールしているが、実際に申請する人の「心のハードル」は高いままだ。

 数年前、生活保護受給者たちにインタビュー調査をしたときに、「仕事ができないっていうのは『おまえは生きている意味がない』って、社会から言われているような気持ちになる」と語る人の多さに驚き、私はどう言葉を返していいのか分からなかった。
 「それまで普通に自活できていた人間にとって、皆様のおカネで生活することは予想以上に精神的に負担だった」という言葉を聞き、私の想像をはるかに超える“世間のまなざしの冷たさ”を痛感した。

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