かれこれ10年以上、700人以上の人たちにインタビューしていると、決して忘れることのできない言葉に出合うことがある。ある大手老舗企業のトップの言葉もその一つだ。
「社長がいちばんやっちゃいけないのは、社員を不安にさせることなんですよ」
一見シンプルな言葉だが、「不安」は人間が抱くさまざまな感情の中で、最もやっかいな感情である。特に職場では、楽しい、めんどくさい、イヤといった単純な感情に加え、嫉妬、羨望、イライラ、怒り、不安、一体感、共感、恋愛、信頼など、多種多様な感情が生じ入り乱れる。職場は「感情の宝庫」といっても過言ではない。
あるのは不安と恐怖
そんな感情がうごめく職場の先頭に立つ“社長さん”が「社員を不安にさせたら会社はつぶれる」と断言した。
「会社員人生なんてもんは理不尽の連続です。それに耐えるには、やっぱり社長への信頼しかないわけですよ。河合さんは『不安の反対は前に進むこと』ってよく言っていますよね。それは全くその通りだと思います。個人の場合はね。でも、会社という単位で考えると、不安の反対は信頼。トップへの信頼なんです」
不安の反対は信頼――。その信頼が、今、ない。あるのは不安と恐怖だ。
1月13日、共同通信が「政府、入院拒否のコロナ感染者に懲役刑想定」という記事を配信した。その直後からSNS、テレビ、新聞、ラジオが、この問題を取り上げ、賛否入り乱れたのはご承知の通りだ。
すったもんだの末、1月28日に「1年以下の懲役」は削除、「100万円以下の刑事罰」は「50万円以下の行政罰」に変わったけど、13日の一報を聞いたときには違和感しかなかった。
で、その違和感は、28日の参議院予算委員会のやり取りを見て、不安と恐怖に変わった。
日本共産党の小池晃氏が27日公開の厚生労働省の審議会議事録を確認したところ、罰則に賛成したのは3人だけで、慎重意見が3人、反対か懸念を表明したのが8人だったと指摘。それに対し、菅義偉首相も田村憲久厚生労働相も、「おおむね了承が得られたので(改正案を)提出した。問題ない」と繰り返すだけだった。
厚労省のHPでその議事録を読んでみたところ、「慎重意見3人、反対か懸念8人」という数字が示す以上に、反対意見には「人」をおもんぱかる言葉がつづられているのに、それが全く無視されている。
いったい今回の法案提出の目的は何なのだろう。
いったい誰が「法案」を決めているのか。
いったい何のために審議会をやったのか。
とにもかくにも分からないことだらけ。これは実に恐ろしいことだ。
私たちが知らないところで、私たちに罰を科すことを決める法律が、私たちの知らないある一部の人たちの意見だけで決められている。
犯罪と刑罰との均衡、取れているか
「罰則は感染拡大防止策の実効性を担保するため」というけれど、審議会ではその実効性さえ疑問視する貴重な意見が出されていたのだ(以下、抜粋)。
「罰則を設けたことによってどのように実効性が担保できるのか。(中略)実際には基本的に市中で発症前の無症状の人たちから感染しているわけであって、そういう方たちは結果的に追えないわけですね。そういう方たちに対する対応、数の多い対応と、恐らく数の少ない部分に対する対応を厳しくするということは、果たして実効性の担保につながるのか」
「罰則を設けることが本当に感染症のまん延防止の実効性を担保するのかというところは、運用も含めて検討する必要があると思います。(中略)今、非常に罰則を設けることによってうまくいくというように議論が流れている気がするのですけれども、なぜ保健所などの調査に協力しなければいけないのかということをよく国民に理解させる努力がそれに先立って必要なのではないか」
「入院拒否も疫学調査拒否もどちらも刑となっており、過料ではなぜ不十分なのかというのがいまひとつ見えてきません。犯罪と刑罰との均衡がきちんと取れているのかということについては疑問がある」
「私は昔の伝染病予防法(編集部注:1999年「感染症予防法」施行に伴い廃止)という時代から感染症をやってきたもので、伝染病予防法のときは、患者さんが病院から逃げますと法律上は交通封鎖までできるという法律だったのですが、実際に患者さんが逃げたらそれをしたかというと、そういうことはできなかった。(中略)(罰則は)伝家の宝刀というような意味はあるかもしれませんけれども、実質性を担保していくにはよく考えたほうがいい」
今なら刑事罰の導入が可能と思った?
また、全国保健所長会が提出した資料にはこう書かれている(以下抜粋)。
「全国保健所長会としてさまざまな意見や懸念を承っています。その中には『対応困難な患者に対する罰則規定を求めない』という意見もある。困難事例においても、常に個々の事情に鑑み誠意をもって、入院、宿泊、自宅それぞれにおいて療養を終えるまで継続する支援を行っているが、時間的、人的余裕が全くない感染拡大状況において、丁寧に行うことが困難な現状です。罰則があれば……というのは窮地の状況を現場の声として訴えられたものと察している」
さらに、議事録の最後に、厚生労働省の健康局長の方のコメントが記されているのだが、これまた「????」となるものだった。
「よくある質問で、ベッドがいっぱいで逼迫している状況で入院勧告、それに応じない場合には罰則は変ではないのというご意見は時々いただくのですが、そういうケースを想定はしていません」のだと。
つまり、医療現場に余裕がある、入院が必要な感染者すべてが入院できる、感染者以外の病気の人がたらい回しにされることなどない状況下での法律だと。
罰則を付した理由を政府は「現場の声」と豪語していたではないか。「罰則があれば……というのは窮地の状況を現場の声として訴えられた」(by 全国保健所長会)という意見の「窮地の状況」は? それとは前提が違うってこと?
メディアは「罰則をつくるのに賛成ですか? 反対ですか?」と聞く街頭インタビューを連日流しているけれど、答えている人は「今」まさに医療崩壊が起きているという前提の下、答えているはずだ。
まさか「今だったら刑事罰も入れちゃえるかもよ?」とノリで法案提出したのか? いったい何の目的で? ……と、不安と恐怖だけが湧き立ってしまったのだ。
くしくも「(罰則は)伝家の宝刀(いざというときのみ、使用するもの)というような意味はある」というコメントが審議委員から出ていたけれど、その根っこにあるのは「すべての人間は利己的である」という考え方であろう。
人間の利己的な本能を抑えるには厳罰化が必要だ、と。
確かに「人間は利己的である」という考え方は、古くからさまざまな思想の原点にあった。とりわけノーベル経済学賞を受賞した米国の経済学者ゲーリー・ベッカーの偉大な論文「犯罪と刑罰:経済学的アプローチ」(1974年)により、80年以降、米国を中心に厳罰化は拡大した。「犯罪を減らす明白な方法は厳罰化だ」と。
協力のシステムが成立する条件
もっとも、コロナに感染することは犯罪ではないし、「入院しろ!」と言われても、入院できない事情もあるだろう。だが、「入院拒否のコロナ感染者に懲役刑」を考えた人たちは、そういった個人的な事情より、ベッカーの理論に基づいて判断したと解釈できる。
厳罰があると分かれば利己的な本能は押さえられる、実効性が担保できる、と。
だが、よく考えてほしい。
社会的動物である私たちは他者と協働することで、生き残ってきた。
災害などが発生し、状況が厳しければ厳しいほど、誰もが自分ができることを探し、互いに依存し合いながらも、それぞれが自立し動きつつ、協力してきた。阪神大震災でも、東日本大震災でも、気象による災害でも、そして、今回のコロナ禍でも、私自身「利他的な人間の姿」を何度も見た。その度に、「他者と協働することで生き残ってきた人類の歴史が、私たちの深部にすり込まれている」と納得した。
実際、世界中のさまざまな分野の研究者たちの研究により「人は考えられている以上に協力的」なことが分かっている。もちろん利己的な人はゼロではない。しかし、さまざまな実証研究が明かしたのは、「人は自分を犠牲にしてでも他者に協力したい」という人間の性であり、近年は「協力のシステム」のメカニズムも解き明かされている。
「趣旨と信ぴょう性」「公平性と透明性」「コミュニケーション」「価値観」。この4つの要素がメンバー間で共有されたとき、「協力のシステム」が構築されるのだ。
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