今回は「ビジョン」についてあれこれ考えてみる。
菅首相はいったい、どうしたいのだろうか。
昨年、12月8日にこのコラムで菅首相には「言葉がない」と書いたが(「菅首相、言葉なき「しどろもどろ会見」で広がる絶望」)、緊急事態宣言を7府県追加するとして開かれた記者会見を見て、訳が分からなくなった。
菅首相の以下の発言に、私の脳内は混乱の域を超え、グチャグチャになってしまったのだ。
何のための水際対策か
「水際対策について、年頭の会見において私は、ビジネストラックに合意している相手国の国内で変異株が発見された際は即時運用を停止する、そうした方針を表明しました。(中略)これまでビジネストラックおよびレジデンストラックに合意している11カ国からの入国者に変異株の感染が確認された事例はありません。
しかしながら現在の国内の深刻な感染状況に加えて、直近では英国からの帰国者によるクラスターで変異株が確認された事例、また、ブラジルからの帰国者で新たな変異株が確認された事例、こうしたことが相次ぎ、国民の皆さんの不安がさらに高まっている現状を大変重く受け止めております。国民の皆さんの命と暮らしを守る、あらゆるリスクを予防的に取り除くために、ビジネストラックおよびレジデンストラックについては、緊急事態宣言が発令されている間、一時停止することにいたします」
つまり、「11カ国からの変異株の感染は確認されてない」→でも「不安が高まっている」→だから「11カ国からの入国を一時停止する」と。いまさら“国民の皆さん”の不安を理由に、経済活動を止めると言ったのだ。
菅首相は1月8日にテレビ朝日の「報道ステーション」に録画出演したとき、「経済活動は続いてますから。そういう中で、(11カ国からの)変異種が一例でもあれば、そこは即止めたい」と話した。
あのときすでに、“国民の皆さんの不安は高まっていた”。なぜなら、昨年末の時点ですでに、国内に変異種が持ち込まれている可能性があったからだ。
だからこそ、「本当に(11カ国からの入国を)継続しちゃって大丈夫なの? 止めた方がいいじゃないの? 水際対策できてるの?」という声が上がっていたのだ。
もし、方針転換が、10日に羽田空港で「英国や南アの変異種と違う新たな変異種」が確認されたことによるものなら理解できる。「まだ他国で報告されてない変異種が持ち込まれないため」に、「あらゆるリスクを予防的に取り除きます!」と言ってくれたら、
よかった。なのに、菅首相はそういった客観的証拠ではなく、「不安」という至極曖昧な感覚を理由に、経済活動を止めたのだ。
12月8日にこのコラムで書いた通り、「次々と事態が変化するときには、その都度最善の選択にアップデートすることが、メンバーから信頼を得るのに必要不可欠だ」。だが、それには前提がある。
――そのためリーダーには不測の事態の中でもあらゆるルートでエビデンスを積み上げ、最悪のシナリオに基づく「勇気ある決断」が求められる――(同コラム)。
一体、今回の突然の方針転換は、いかなるエビデンスに基づくものだったのだろう?
目的が不明のコロナ対策
くしくも、1月13日の記者会見では、ビデオニュースの神保哲生氏が、「われわれがぜひ知りたいのは、いったい政府は何をやってきたのかと。国民に協力を求めるのはもちろん必要なんでしょうけども、政府は何をやっていたのかということを知りたい国民が多いと思います」と言った。
私もその国民の一人だ。
が、政府が「何をやっていたのか?」ということ以前に、政府は「何を目的にコロナ対策をやっているのか?」が知りたい。
コロナに感染させないため?
感染して亡くなる人を防ぐため?
感染者が増えて、医療現場が崩壊するのを防ぐため?
「命の選別=トリアージ」を避けるため?
とにかく“国民のみなさま”が不安にならないために、あらゆるリスクを予防的に取り除くため?
菅首相はもとより、その演説(決してメッセージではない)原稿を書く広報官も、政府も、大臣たちも、いったい何のためにコロナ対策をやっているのだろう。
コロナ禍は、ビジネス用語でいうところの「VUCAの世界」だ。
おそらく経営者の方であれば「そんなこと言われなくても分かってる!」という「VUCA」だ。
VUCAは、Volatility―変動性、Uncertainty―不確実性、Complexity―複雑性、Ambiguity―曖昧性の頭文字をとったもので、もともとは1990年代に軍事用語として誕生した。
かつて軍隊は、国と国との戦いを制するために、トップが作戦を作り、現場がそれを忠実に実行することで成功を収めてきた。
ところが、米国では1990年代以、アルカイダによるテロが頻発するなど、戦争のカタチが変わった。
アルカイダという国ではない、誰がトップかよく分からない組織で、誰が立てたかも分からない作戦が次々と実行された。組織の思想に同調した組織外の人たちのテロも相次いだ。こういった“新しい戦争”に勝つには、かつてのトップダウンの戦い方とは異なる、柔軟かつ即決性のある、その時々に応じた戦い方が必要になり、VUCAという言葉が使われるようになった。
ビジネス環境においても、2000年代にグローバル化やAIなどの技術が劇的に進歩し、かつての成功経験が役立たなくなった。トップが戦略を立て、現場が実行する「ピラミッド型」では生き残れない時代になった。
そこで米国のビジネス世界でもVUCAという言葉が使われるようになり、特殊作戦部隊のオペレーションに学ぶ企業マネジメント研究や、個精鋭兵士たちのスキルに注目した個人のキャリアの磨き方の研究が急増したのである。
ビジョンという道しるべ
どんなカタチの社会であれ、組織が組織として機能するには、リーダーの役割は極めて重要である。
が、VUCAの世界では、とりわけリーダーの役割は重要で、「明確なビジョンなきリーダー」は、チームを崩壊させる。
では、ビジョンとは何か?
ビジョンが何かについては、さまざまな解釈があるが、私が考えるビジョンとは「自分たちが存在する意味」と「自分たちが向かう方向」を明確にすることだ。
組織の中で、リーダーは誰よりも大きな権限を持ち、その権限に基づく権力を行使できる存在である。リーダーがビジョンを明確にして、そのビジョンがフォロワーに徹底的に共有されて初めてリーダーシップを発揮できる。
VUCAという不確実性が強い世界では、組織のすべてのメンバーが柔軟かつ素早い決断をし、行動しなくてはならない。常に情報をアップデートして、主観的ではなく客観的、かつ信用できる情報を見極めて、「自分たちが向かう方向」にたどり着くための最善の選択をする。
ビジョンはそのための道しるべだ。
とはいえ、どんなに明確なビジョンがあっても組織を動かすのは「人」。どんなに優秀なリーダーも人だし、フォロワーも人。
人は「見えるものではなく、見たいものを見る」。自分の考えに合致する情報だけを探し、受け入れ、確信に反する情報を無意識に排除する。自分の判断を疑うより、自分の正しさを証明する方が気持ちがよいため、心が勝手に動いてしまうのだ。
このやっかいな「人」の習性を最小限にすることも、極めて重要なリーダーの役目だ。
リーダーは組織に外部の目を入れ、自分とは考えの違うメンバーを置き、フォロワーとコミュニケーションをまめにとり、オープンな空間で、疑問点がなくなるまで徹底的に対話する手間と時間を費やさなくてはならない。
菅首相は、内閣発足時、「新型コロナウイルス感染対策」を重要課題に掲げた。だが、その重要課題に対応するためのビジョンはいったい何だったのか?
ビジョンと、ビジョンの共有、そして徹底的な対話――。これらがないままに、この国では新型コロナ感染対策が実行されている。ましてや、菅首相から危機感も伝わってこない。
だから「政府が何をやってるのか?」が分からなくなる。
整合性なき首相の言葉
GoToを率先して進めたことからも分かるように、もし菅首相が「経済を止めないことが何よりも大事!」と考えているなら、多くのお店が休み、働く人も休みになる年末年始の前に、緊急事態宣言を発令すればよかったのだ。ちょっと前まで「1月11日まで冬休みにしろ!」って言っていたではないか。
菅首相は緊急事態宣言を出す方向に舵(かじ)をきった理由を、「去年の暮れに1300人という数字を見て先行き不安だなぁと思いました」「これだけ増えるとは想像してませんでした」と言っていたが(テレビ朝日「報道ステーション」での発言)、ってことは正確な情報をアップデートしてなかった?
かなり早い段階から、新型コロナは「気温が低い」「湿度が低い」といった環境で感染リスクが高まることが、さまざまな研究で確かめられ、冬季に感染が拡大するリスクが指摘されていた。
実際、昨年11月に入って北日本で急激に感染者が増加。北海道では11月20日に感染者が過去最多を更新し、青森県でも10月14日時点の感染者は累計41人だったのに、11月に入り245人(11月3日時点)と6倍に急増。また、宮城県でも実効再生産数が2.39(10月31日時点)になるなど、北日本で感染拡大が爆発していた。
海外でも欧州各国が第2波を迎え、ドイツ、スペイン、英国、イタリア、フランスでは連日1万人を超える感染者が報告され、多くの国で外出禁止などの措置が取られていた。
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