新型コロナ感染防止策で、いつも以上に“勝手にひとり在宅勤務”が4月以降続いていたのだが、少しずつ外の方たちとリアルにお会いする仕事が入るようになった。
社長さんとの対談や鼎談(ていだん)、リモート講演会やセミナー、会社の役員さんたちとの意見交換会などなど、年齢や職種、企業規模はバラバラだが、久しぶりに会う皆さまの関心は、もっぱらこれからの働き方、働かせ方だった。
今風の言い方をすると、“アフターコロナ”における“ニューノーマル”といったところだろうか。
が、何か以前と違う。
なぜかこの数日間お会いした方たちから紡がれる言葉には、生臭さがなかった。これまで現場の人たちの言葉には、独特の温度があり、あまりのドロドロした粘っこさに、「人間って……大変」とため息をついたものだった。ところが、今回はどの会合でもそれが全くといっていいほど無い。
アフターコロナという、いつの、どこの、どういう手触りかも分からない世界の話をしているからなのか。ニューノーマルという電車に「乗り遅れないようにしなくちゃ!」という焦りからなのか。とにもかくにも、耳を傾ければ傾けるほど、話の論点があさっての方向にずれ始めていくのだ。
大企業に広がる「ジョブ型」志向
特に、「ジョブ型」の話題になると(これはどの会合でも出た)、かなり微妙だった。いや、微妙とは失礼、私が皆さんのお話を聞きながら、「なんか……微妙」と思っただけなので、お許しください。
要は、ジョブ型とセットで語られる、生産性だの、優秀な人材だの、評価だの、解雇規制だのという言葉のオンパレードに、私の脳内のサルやトラが大暴れし、「これってバブル崩壊後のあの時と一緒じゃん」「要は成果主義だろ!」「ホワイトカラーなんちゃらというのもあったよね!」と、ジョブ型という言葉の片隅に、デジャブ感、を抱いている。
……いきなり辛口だが、仕方がない。トップの“あさって思考”は、決まって現場に強い副作用をもたらすものだ。結果として、その痛みは立場の弱い人ほど深刻になる。
というわけで、今回は「覚悟なきジョブ型の末路」について、あれこれ考えてみる。まずは簡単に「ジョブ型」のおさらいから。
ジョブ型雇用は仕事内容を詳細に記述したジョブディスクリプション(JD、職務記述書)に基づいて働く雇用制度のこと。新型コロナウイルス禍を機に、多くの企業で関心が高まっていて、すでに、日立製作所、資生堂、富士通、KDDIなどが、ジョブ型の導入や拡大を発表している。
- 日立製作所では10年前からジョブ型を取り入れていたが、今後は在宅勤務とジョブ型を同時に拡大し、「職能型」で雇用している国内の一般社員約3万人を対象にJDを作成、21年3月までに完了させる予定。
- 資生堂は、来年1月から一般社員3800人をジョブ型の人事制度に移行する。魚谷雅彦社長によれば、ジョブ型はあくまでも「究極の適材適所」であり、成果主義とは異なるとのこと。「この仕事は何が必要か」を細かく説明し、性別、年齢、国籍などにかかわらず、一番ぴったり合う人を配置するという。
- 富士通では、すでに4月から管理職1万5000人にジョブ型の人事制度を導入したが、今後は一般社員全員に拡大する予定だ。テレワークを基本とし、雇用をジョブ型に転換する想定の中で、社員に自律的な成長を促す狙いがあるという。
- KDDIは、2020年度入社向け新卒採用で実施していたジョブ型採用枠を約4割に拡大し、あわせて2021年度入社向けの新卒採用から、選考期間の決まった一括採用から通年採用に変更すると2019年末に公表している。
こうした企業は、長い年月をかけて、社員一人ひとりの力を引き出すための様々な「機会」がある環境づくりに取り組んできた経緯がある。世間では「ジョブ型雇用」のことばかりに目が行ってしまいがちだが、あくまでもジョブ型は「社員一人ひとりの力を引き出す取り組みのプロセスの“1つ”」にすぎないと、個人的には理解している。
そんな中、コロナ禍でテレワークを経験した企業が、「ジョブ型に変えるなら今でしょ!」と言わんばかりに、ジョブ型の導入を考えてはじめた。今回、お会いした人たちからも、
「テレワークやってみてはっきりしたけど、ジョブ型にしないとダメだね。何やっていいか分からない社員が多いんだもん」
「在宅勤務になると時間管理できないからね。ジョブ型に変えないと無理」
「若い人たちは就社じゃなくて、就職の意識が強い。ジョブ型にしないと相手にされないよ」
「そうそう。いい人材をゲットするには、ジョブ型を導入しないとね」
「ただ、ジョブ型に転換するには、雇用規制の緩和も進めないと」
「そのとおり!やらせてはみたが期待通りにできない。能力がないからって、解雇できないしね」といった意見が相次いだ。
ふむ。確かに言いたいことは分かる。
私自身、これまで書いてきた通り、今後は今まで以上に成果主義が重視されることになるに違いないと予想している。だが、なぜ、ジョブ型=良い人材をゲットするため、とか、ジョブ型→解雇規制の緩和といった議論になってしまうのか、まったく腑(ふ)に落ちない。
念のため断っておくが、私は何も「ジョブ型」に反対してるわけじゃない。しかしながら、なんのためのジョブ型なのか。ジョブ型を導入すれば、「今ある問題」はホントに解決するのだろうか。
「ジョブ型」にバブル後の成果主義の臭い
ジョブ型の議論に耳を傾ければ傾けるほど、「あの……そんな都合のいい人材、どこにいるんでしょうか?」と素朴な疑問が湧き、ジョブ型という言葉だけが先行しすぎじゃないのか、と思えてならないのである。
思い出してほしい。バブル崩壊後に「ムダをなくせ!」を合言葉に、多くの企業がリストラと成果主義でコスト削減したことを。文化も習慣も企業の成り立ちも違うのに、米国型経営=成果主義を中途半端に導入したことを、だ。
どんなに先行研究を探しても「終身雇用が会社の生産性を下げる」というエビデンスは見当たらないし、成果主義を導入したからといって生産性が向上するというエビデンスがあるわけでもない。ところが、「今ある問題を解決する最良の手段が成果主義」といわんばかりに、あちこちの企業が中途半端な成果主義に走った。「人」ではなく「カネ」、人件費を減らす手段として、こぞって「成果主義」を輸入したのだ。
その結果、何が起きたか?
上司が部下を育てるというそれまでの企業文化の美徳が失われ、手柄の奪い合いが起こり人間関係が悪化することもあった。中には上司との折り合いの悪さが、成果にマイナスに響いた人たちもいた。
「たまたま異動が評価の時期をまたぐことになった。前の部署で上司と折り合いが悪く飛ばされたんです。新しい部署の上司は僕の働きぶりを知らないので、前の部署の業績で評価するわけです。その結果、僕の評価は3段階も下がり、月10万も賃金を減らされました。年間120万の減額は苦しいです」
この話をしてくれた男性の経験は、まれかもしれない。だが、こんな不合理な事態が成果主義との末路に存在しているとしたら、それはお粗末としかいいようがない。
先行きが見えない「今」大切なのは、「どうやって働く人の能力を最大限に引き出すか?」を徹底的に考えることではないのか。
「いや、だからさ、そのためにはジョブ型が必要なんだってば」と、おそらくこう反論する人は多いことだろう。
だが、ジョブ型導入の先に企業が見ているのは、「生産性の向上」であろう。言葉や法律さえ変われば、企業の生産性が向上するわけじゃないことくらい、誰だって分かるはずだ。なのに、手を替え品を替え、生産性向上をうたう“流行りの言葉”を盾に法律を変えてきた。
たとえば、高度プロフェッショナル制度、いわゆる「高プロ」は今から2年前、連日、新聞紙面に取り上げられて日本中の注目を集めた。当時、裁量労働制で働いている人たちの過労死が問題になっていたにもかかわらず、政府は「問題ない」という認識を一向に変えず、「労働者のニーズに応えるために、待ったなしの課題」と政府は豪語し、法案は成立した。
あんなに話題になった裁量労働制はどこへ?
ところが、ふたを開けてみると「高プロ」が適用されたのは、法施行から1カ月でたったの1人。あれだけすったもんだの末に導入されたのに、全国でたった1人にしか適用されなかった。
その理由が実にシュールで、報道によれば企業は高プロを適用した社員には「過労防止策の実施状況」を報告する義務があったために企業側がこの制度を適用したがらなかったからだという。
企業側に求めた条件は、
・「4週4日以上、年104日以上の休日確保」の義務、
・「労働時間の上限設定」「2週間連続の休日」「勤務間インターバル導入」「臨時の健康診断」から1つ以上の対策を労使間で選ぶ、の2点だった。
これらは労働者の健康を確保するための最低限の基準だと思うのだが、それさえ嫌だった、あるいは、労基省に監視されることを嫌ったのか。
現在では、この制度の適用者は414人にまで増えたが、もともと対象が少ない「高プロ」を導入したのはここから広く普及させるためのアリの一穴を狙った。が、どういうわけか、あれっきり「裁量労働制」という言葉は聞かれなくなった。
成果主義、ホワイトカラーエグゼンプション、高プロ、そして、「ジョブ型」。言葉を変えているだけで、その先に期待しているのは「コスト削減」による「生産性の向上」なんじゃあるまいか。
「欧米ではジョブ型は当たり前で、日本のメンバーシップ型では、生産性の向上は期待できない」という声も聞こえてくるけど、ジョブ型を適用するには、ジョブ型を適用するためのかなり手間のかかる前段階がある。
欧米では「ジョブ型」に耐えられるだけの人材育成に、国と企業と大学とで取り組んでいる。人に投資することで、人材を育て、その結果として「ジョブ型」は存在しているのだ。
たとえば、ご承知の通り、多くの企業が即戦力を求める米国では、徹底して専門的な知識と実務経験を重視している。
大学で何をどれだけ勉強してきたかが非常に重要とされ、就職においても大学の成績が重視される。早い学生は高校から、一般的には大学在学中から企業の長期インターンシップに参加し、大学で学んだことを生かした実践的な経験をすることで、在学中に求められるキャリア・レディネスをしっかりと高めていく。卒業後に即戦力として働けるように企業と大学が投資する。
頭だけでもダメ、経験だけでもダメ。即戦力にはその両方のトレーニングが必要だという認識が社会に共有されている。学生に「ひとつよろしく!」と丸投げしてるわけじゃない。きちんと育つために「投資」しているのだ。
人材は理論と実践で育ててこそ
デュアルシステムとして知られるドイツの職業教育訓練制度(Vocational Education and Training: VET)も、企業内OJTと公立の職業学校における座学を組み合わせた制度で、企業と国が一緒に「ジョブ型」に耐えられる人材を育成している。この点は米国と同じだ。
デュアルシステムは、従来、9年間の全日制就学義務を終えた若者が職場で職業訓練を受けながら、訓練先企業周辺の職業学校で学ぶことができる初期職業教育訓練制度の最も一般的な仕組みで、商工会議所、労働組合、連邦政府、州政府、職業学校などの産官学のソーシャルパートナーによる連携によって成り立っている。
近年の経済構造の変化や、技術や技能の専門化や高度化に、デュアルシステムも様々な変革を余儀なくされているけど、「個人の能力を最大限生かすための教育を行う」という視点は、1969年の職業教育法の成立時から、全くぶれていない。
特に最近は、グローバルな高学歴化に伴い、大学卒業者でもデュアルシステムによる職業資格を持っていたり、訓練先の企業に就職したりする割合も増えている。
どれもこれも付け焼き刃的に「人材」を見分けるのではなく、育てる努力をしたうえで人材を雇用しているのだ。
「私はね、この会社でずっと働いてきてやりたいことを色々と考えてきたんです。それを社長になって一つひとつ実践しています。テレワークをやって、自分には見えてなかった問題があることも分かった。でもね、ジョブ型だの、中途採用しかしないだの、即戦力だのというけど、じゃあ、誰が人を育てるんですか。会社が育てることを放棄して、生産性だ、働き方改革だ、ダイバーシティーだって、何を言ってるのかと思いますよ」
この数日間お会いした中で、ただ一人こう嘆いた社長さんがいらっしゃった。
まったくもってその通りだと思う。繰り返すが、ジョブ型雇用の導入を進めることに異論はない。だが、ジョブ型は人に投資することで成果を上げる制度であり、コスト削減のためのものではない。ジョブ型は魅力というけど、経営者にそれを使いこなす力量がなければ、その魅力は現場への暴力に変わっていくのだ。
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