これだけ「カタチ」が変われば、ひずみがたまって当然である。

 だが、そのひずみから“出血”したときの処置は、小さな絆創膏(ばんそうこう)を貼るだけだった。傷口を探し、なぜ、その傷ができたのか?を考えることもせず、ひたすら目先の対症療法を講じてきた。

 今回のような緊急事態でも「安泰」でいられる人たちには、「カタチの変化」にリアリティーを持てない。どんな数字を突きつけられ、どんなに出血が止まらず命が脅かされる人が続出しても、彼らの「カタチ」は昭和のまま。さまざまな変化の中で、彼らの思考の中で「昭和のカタチ」だけは維持されるのだ。

 何度も書いているとおり、経済的格差、社会的格差がもともと深刻だったところに今回は突発事態が生じ、それに耐えられる体力のある強者とダイレクトに影響を受ける弱者の溝が一層深まった。

恐怖に対する意識の差はリソースの差

 誰もが例外なく「コロナの恐怖」を感じているはずなのに、「壁」のあちら側の人たちは豊富なリソースを持ち合わせているので、恐怖感を共有できない。いや、ひょっとすると安泰な人たちは「感染もしなければ、感染を広げることもない」と信じているのかもしれない。

 だからこそ、「ひとつよろしく!」的発言にも、全くためらいがない。

 「人の接触を7割とか8割とか8割5分にするとかって、そんなことはできるわけがないじゃないですか。それは国民の皆さんのご協力をお願いすると。早く言うと、お願いベースですよね」(二階俊博自民党幹事長)

 持てるものと持たざる者との「壁」は果てしなく高い。だが、どんなに強固な壁にも隙間があり、コロナ後には、そこから事務職や技師などの「新中間階級」の人たちもこぼれ落ちるかもしれないのに、“上”はその危機感さえ持てずにいるのだ。

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