ふむ。一体なぜ、こんなにも“霞が関脳”が考えたシナリオは問題だらけなのだろうか。eポートフォリオからは、英語の民間試験や記述式と似通った“例の匂い”も漂ってくる。

 大学入試改革は、「新しい時代にふさわしい高大接続の実現に向けた高等学校教育、大学教育、大学入学者選抜の一体的改革」と文科省は胸を張るけれど、実際には「新しい時代にふさわしい高大接続の実現に向けた高等学校教育、大学教育、大学入学者選抜、および“民間企業大繁盛”の一体的改革」なのだな、きっと。

 念のため断っておくと、「主体性を持って多様な人々と協働して学ぶ態度」を育む教育をすることに全く異論はない。個人的な話になるが私は10年以上、中学校の理科の教科書の編集委員をやっているので、考える力や学びを深化させるのに、他者との協働作業も行うアクティブラーニングなどを活用することで、学習指導要領に書かれている「主体性を持って多様な人々と協働して学ぶ態度」を授業で行うように仕向ける教科書作りに知恵を絞ってきた。

 だが、「主体性を持って多様な人々と協働して学ぶ態度」を教育することと、それを評価することは全くの別物である。 それに主体性とは「自分の意志・判断に よって、みずからから責任をもって行動する態度や性質」(by「大辞林」)であり、この生きていく上で極めて重要な力である「主体性」と、「主体性を持って多様な人々と協働して学ぶ態度」の違いは何なのか?

疑問だらけの「主体性の評価」

 例えば、eポートフォリオの、「生徒会や委員会活動、学校行事への参加、部活動、学校以外の活動(ボランティアなど)、留学・海外経験、表彰・顕彰、資格取得、検定合格」は、主体的な活動であることは間違いない。が、なぜこれが「主体性を持って多様な人々と協働して学ぶ態度」の評価になるのか? 私にはどうしても理解できない。

 以前、沖縄に講演会に行った時に、ある現地の先生が「沖縄はシングルマザーが多いので、通学費を捻出するためにバイトをする学生が少なくない」という話をしてくれたことがある。学校に行くためにバイトをする子供の主体性はかなり高い。しかしながら、それは「主体性を評価するシステム」の項目に含まれていない。

 あるいは、さまざまな事情で大学に行けなかった人や学び直しをしたい人が、年配になってから大学受験をする場合もある。社会で働いた経験は、おそらく「主体性を持って多様な人々と協働して学ぶ態度」だ。ところが、そういった人には「調査書」もなければ、eポートフォリオの活動記録もない。彼らの評価はいったいどうなるのか?

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