88歳の母親の日々を想像するだけで、胸が詰まる……。介護は元気な中年でも精神的にも、肉体的にも負担が大きいし、はたからはどんなに元気で、しっかりしているように見える人でも、年齢には勝てない。老いには個人差があるが、誰もが例外なく老いる。それは「昨日までできていたことができなくなる」というリアルだ。

 これまでも介護問題については、さまざまな角度から取り上げてきたけれど、「老いる」ということへの理解の乏しさを痛感させられる出来事が増えた。

 つい先日も、スーパーでおばあさんが支払いに時間がかかっていると、後ろの男性が「チッ、早くしろよ!」と声を荒らげていた。こういった光景は以前からあったので、私はレジに並ぶときは高齢者の後ろに並ぶようにしていたのだが、声を荒らげたのは私の後ろにいた人。ついにらんでしまったら、男性はバツが悪そうに貧乏ゆすりをし……、ちょっと怖かった。

 デパートや駅のエスカレーターでは、いまだに左側に寄ってないことにいら立つ人がいる。「そんなに急いでいるなら階段を使え!!」と思うのだが、エスカレーターに乗っている人に接触する勢いで駆け下りていくのは本当に危険だ。

 間違えて子供用の切符を買ってしまったおばあさんに、ひたすら「手数料がかかるけどいいですか?」と迫る駅員を見たときには怒りすら覚えた。

 おばあさんと駅員の会話によれば、孫を連れていたおばあさんは間違えて子ども用のボタンで2枚分買ってしまったらしい。

 で、それを「大人用に変えてほしい」とおばあさんが言っているのに対し、駅員さんは「一度買った切符は変えられない。手数料がかかる」の一点張り。

 おばあさんはちょっと押し間違えただけなので、なぜ、手数料がかかるのかが理解できない。おばあさんに分かるように、ゆっくり丁寧に言えばいいのに、駅員はどんどんと高圧的になり、おばあさんは「ごめんなさい。押し間違えちゃって」と謝り続けた。

 見かねた通りすがりの男性が、「押し間違えただけなのに、手数料がかかるんですか?」と駅員に尋ねると「はい。規則なんで」。その態度は悲しくなるほど機械的で。「なんでこんなに高齢者に冷たいんだ」と私の脳内のサルは大騒ぎだった。

認知機能低下は老いれば普通のこと

 老いる──。年を取っていく親と日常頻繁に接していると、「年を取るって、大変なことなんだなぁ」とつくづく思う。

 視力一つ取ってみても、視野が狭くなる、色の識別が難しくなる、明るいところから暗いところに入ると見えなくなるといった自然な老いに加え、緑内障になると視野の一部が欠けるため、足元が見えづらくなったりもする。

 聴力の低下というと、単純に「耳が聞こえない」状態をイメージするかもしれないけれど、通常の聴力がある高齢者でも「初めて話す人」の話や、外出して緊張していると聞こえづらくなる。「転ばないようにしなきゃ!」と歩くことに集中するあまり、車の音さえ耳に入らなくなる。

 どんなに気持ちが元気な高齢者でも、体力と認知機能の低下から逃れるのはムリ。ちょっとでも疲れると、ますます認知機能は低下するし、高齢になると思い込みも激しくなる。周りがせかすと焦り、余計にできなくなったりすることもある。

 つまるところ、「見えづらい、聞こえづらい、忘れやすい、勘違いしやすい、覚えられない、思い込みが激しくなる」という現実の繰り返しが老いることだ。

 ところが、高齢者のこういった言動は、すぐ「認知症」に直結させられてしまう。この短絡的な解釈が、どれだけ高齢者やその家族を生きづらくしていることか。高齢の親と接する機会が多い人には、私が何を言いわんとしているかが分かると思う。

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