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 どんなに詳細なルールやマニュアルを作ったところで、そこに「人」がいる限り、網の目からこぼれ落ちる事態や事件が起こる。そんなときに、現場の対応次第で、小さな事件がとてつもなく大きな問題になってしまったり、大問題になりそうな事件が意外にもすんなりと過ぎていってしまったりもする。

 つまり、「現場の力」。それを左右するのが「暗黙知」というわけ。

 ついつい私たちは言葉にできる知識こそが「真の知識」だと考えがちだが、実際には暗黙知のような言葉にならない知識の方が、物事を遂行し、諸問題の解決するのに役立つ。危機を乗り越えるには必要なのだ。

 かなり前になるけど、「これぞ暗黙知だ!」という場面に出合ったことがある。

 マンション横の一方通行の道で、大きな荷物を持った年配の女性が私の車の前を走っていたタクシーを止めたのだが、女性がなかなか乗り込むことができず、ちょっとした渋滞となった。

 タクシーの運転手さんは車から降りることもなく、歩くおばあさんを待つばかりで、そのうち後ろの車が「プッ、プッ」と小さくクラクションを鳴らし始めた。

 それは明らかに「おばあさん」に向けられたものではなかった。私自身も「まったくも~。なんで運転手さん降りてきて、おばあさんの荷物を持ってあげないんだろう。なんなら私が行くか!」と動かない運転手に少しばかりイラついてしまったので、クラクションを鳴らした人も「おい!降りて手伝ってやれよ!」とサインを送ったのだと思う。

現場の解決力は暗黙知が支えている

 すると私の後ろに並んだ車の列の中に同じタクシー会社の方がいたようで、年配の運転手が突然走ってきて私たちに深々と頭を下げた。そして、おばあさんの荷物を持ち上げて手を取り、優しくドアを開けておばあさんを乗せたのだ。

 慌てて20代後半くらいの若い運転手さんもタクシーを降り、ベテランの運転手さんに促されるように私たちの方に頭を下げた。

 まさに危機一髪。

 ベテラン運転手が出てこなければ、クラクションをさらに激しく鳴らす人たちが出てきて、おばあさんは悲しい気持ちになっただろうし、クラクションを鳴らす運転手に怒りを覚える人も出てきたに違いない。

 このときのベテランの運転手さんの行動力こそが「暗黙知」がなせる業。即座に脳と体が状況を処理し、「今、何をすべきか?」を順序だって判断する。

 暗黙知はさまざまな不測の事態や、「もう無理!」という状況を繰り返し経験することで高まるため、年齢とともに上昇し、ピークは70歳と断言する研究者もいるほどである。「おばあさんの知恵袋」などはまさに暗黙知なのだ。