
今回は平成最後のコラムとなるので「平成の30年間を振り返る」という、コテコテのメディアチックなテーマにしようと思う。
個人的には、私は昭和63年(1988)入社。かくして昭和の高度成長期に「当たり前」だった働き方が瓦解していく様を目の当たりにした世代でもある。“ピチピチ”で“イケイケ”だったあの頃、自分のキャリアを含め「こんな風になる」とは“1ミリ”も想像していなかった。
もちろん元号が変わったからといって、今ある「流れ」が変わるわけではない。
だが、平成を振り返ることは自分のキャリアの足跡をたどることであるとともに、フィールドワークのインタビューに協力してくださった約700名の人たちの「語り」に思いをはせる作業でもあり、これまで講演会やら取材やらでお邪魔した数えきれないほどの企業の人たちから伺った「わが社の問題点」を振り返ることでもある。で、そんないくつもの“データBOX”の蓋を開けてみると、
「悪化、劣化、衰退」
という、最悪な文字しか浮かばない。ふむ、何回振り返っても暗闇しか見えない。
もちろん色々な制度や法律はできたし、セクハラやパワハラ、長時間労働など、やっと、本当にやっと平成終盤で関心が高まり、部分的にはかすかな“光”が見えてきた問題もある。
しかしながら、どれもこれも抜け穴だらけで、全体を見渡すと“自滅”にむかっているとしか思えないのである。
それは「グループ一九八四年」が昭和50年2月号の『文藝春秋』に投稿した論文、「日本の自殺」の中に予期されていたとおりであり、本論文が2012年に文春新書から出版されたときの巻末で文芸評論家の福田和也氏が記した言葉どおりのことが起こっているな、と。
「日本人が部分を見て全体をみることができなくなり、エゴと放縦と全体主義の蔓延のなかに自滅していく危機のなかに存するというべきなのである」(by グループ一九八四年 『日本の自殺』P.57より)
「今の日本は『自殺』するだけの勢いもなく、衰えた末に『自然死』してしまうのではないか、と思わされる」(by 福田和也氏 同P.189より)
なんだかしょっぱなから陰鬱な文章になってしまったのだが、「全体をみることができなくなった」という言葉の重みを裏付ける調査から、まずは紹介しようと思う。
この調査は私の大学院時代の恩師である山崎喜比古先生が中心になり、平成3年(1991年)11月に「中壮年男性」を対象に実施したもので、日本の産業ストレス研究の原点といえる大規模調査のひとつだ。
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