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冗長性と、ともに過ごす時間の欠落

 さて、話をコミュニケーションに戻そう。

 これまで触れてきたように、脳に有意な「男女差」はないが、コミュニケーションスタイルには、環境や経験の違いに起因するある程度の「男女差」がある。また、男女関係なく、コミュニケーションの主導権は「受け手」にあり、「伝え手」以上に「受け手」の“巧拙”にその質が左右される。だからこそ、コミュニケーション不全はいつでも、どこでも起こり、様々な問題の原因になる。

 つまり、思い通りにいかないのが当たり前。なのに昨今は、ちょっとお気に召さないと激しく批判し、同調者が一気に参集して“延焼”につながる。その過剰反応は、ちょっとばかり異常だ。

 一体、なぜこうなるのか?

 もちろん、原因を一つに求めるのは難しい。しかしながら、あくまで私見だが、「冗長性(redundancy)」を伴うコミュニケーションが減ったことが原因の1つではあるまいか。

 冗長性とは、会話における無駄。相づち、間、話の脱線、無駄話などのこと。

 人は、冗長性があることで、自分の解釈の誤りに気づいたり、相手の話に共感したりするチャンスを得る。ときには、抜け落ちた言葉や、語られなかった隙間が、相手の想像力を喚起させる効果もある。適度な冗長性は、コミュニケーションをする者の間に生じる様々な溝を埋める役割を果たすが、その前提として、“共に過ごす時間”が不可欠なのである。

 論理的に、効率的に、短時間で話そうとすればするほど、冗長性も共に過ごす時間も失われることになる。また、SNS上のコミュニケーションでは、冗長性は必然的に落ちる。コンテクストも感じにくいし、対面でないだけに、感じる努力の必要度も下がる。

 うまくいかないのが大前提である他者とのコミュニケーションにおいて、うまくいくための冗長性を強奪されているのが現代社会といっても過言ではないのである。

 ……なんてことを書くと、「ダラダラ話す人は何言ってるかわからないからコミュニケーションできないじゃないか!」だの、「結論が飛躍すぎだろう!」だの、またまたご批判をいただきそうだが。

 嗚呼、ホントにコミュニケーションは永遠のテーマであり、男と女の問題も永遠のテーマ。私の場合、原稿の執筆も永遠のテーマ???「冗長性だらけのコラム」が、皆さんにうまく“解釈”されることを信じつつ……。