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「医師が足りない」は本当なのか?

 過労自殺に関わってきた弁護士は「医師が足りない」と口をそろえる。

 一方、医師たちに意見を聞くと「足りない」との声の一方で、「いやいや、問題は労働時間が少ない開業医の多さだ」「長期的に見れば余るくらいだ」「最大の原因は医師の遍在化だ」といった意見も少なからず聞かれる。

 医師は足りているのか? 足りていないのか?

 厚労省は2016年、「2040年時点では医師の供給が需要を1.8万~4.1万人上回る」との推計を示しているけど、元になっている医師数のデータか未来予測のどちらかに大きな問題があるんじゃないのか。予測が難しいのは理解できるが、次々と明るみになる同省の「データ偽造問題」を鑑みると、何が現実的で何が現実的じゃないのかすらわからなくなる。

 いずれにせよ、「現実を鑑み、患者さまの不利益にならぬよう進めていくことが肝心」という意見はごもっともだが、一番の問題は、現実の「異常さを知覚できていない」こと。“お医者さま”の当たり前は本当に当たり前なのか?と考え、ズレを知覚する努力から始めない限り、若い命がないがしろにされる事態は続いていく。

 実に残念なことだけど、人間の「知覚」とは実にやっかいな代物なのだ。心理学における「知覚」とは、「外界からの刺激に意味づけをするまでの過程」のこと。このメカニズムを理解するのによく使われるのが、ジェローム・セイモア・ブルナー博士の「カードの心理実験」である。

 博士はカードの中に、「赤のスペード」と「黒のハート」を交ぜ、ほんの数秒だけ見せて「なんのカードだったか?」を答えてもらう実験をした。その結果、ほとんどの人が「黒のハート」を「スペード」、「赤のスペード」を「ハート」と認識した。黒のハートの4を「スペードの4」と、赤のスペードの7を「ハートの7」と答えたのだ。

 なぜ、「黒のハートがスペード」に見え、「赤のスペードがハート」に見えるのか?

 答えはシンプル。“当たり前”に囚われているから。つまり、「知覚とは習慣(=文化)による解釈」であり、職場にはびこる数々の「意味不明」は、心が習慣で動かされていることが深く関係している。「医者の世界の常識が世間の非常識」なのは“お医者さま文化”に適応した結果なのだ。

 残念なのは、最初は異常さに気づいていた若手でさえ、仕方なく周りに合わせていくうちに、「おかしいことをおかしい」と知覚できなくなり、「アレはアレで意味あること」という信仰に変化するってこと。

 で、このやっかいな「知覚」を変化させるもっとも有効な策が、「声」を聞くことだ。ひたすら聴覚を駆使し、相手の言葉を聞き続ける。知覚を変えるには「他者の力」が必要不可欠だ。目・耳・鼻・舌・皮膚の感覚器官からインプットされる情報のうち、耳だけは他者の力なくして機能しない。

 私が知る限り、働く人が生き生きとしている職場のトップは、例外なく現場を歩きまわり、現場の声に耳を傾けている。“お医者さまの耳に念仏”では、救える命も救えません。