「決まったこと」にも食い下がる
石塚:世間ではあまり言われてないんだけれども、自分が常々思っていることを、小田嶋さんがスパッと書いてくださって、非常に共感する。「こういう言い方をすればよかったのか」と。もう1つは、自分では気付かなかった切り口で物事を見せてくれる。「出羽の守」の回とか、そうでしたね(2020年9月25日掲載「出羽の守に叱られろ!」)。
担当者の1人としては、連載のときは「ここまで言わないといけないのだろうか」と思うテーマを選ばれることも多かったし、どきどきしたりしていましたけれど、単行本にして読み返すと「こういうことは誰かが言って残さないと」と思って書かれたんだろうな、と思うことが多かったです。
石塚:「そういうものだから」「決まりだから」というのが苦手というか。
はい、「世の中のルールと言うけど、そんなものに俺はサインした覚えはない」みたいな感じなんですよね。オリンピック招致などにしても「決まったことにグダグダ言うな」という風潮に、猛然と食ってかかって。
実際、「夢」という言葉を、集合名詞としてとらえている日本人は決して少なくない。
そう思う人がそう思うことを止めることはできない。
ただ、私は、同じ考えを持つ人間ではない。
私は、「夢」は、あくまでも個人に属するものだと考える。
だから、五輪招致運動のキャッチコピーが
「いま、ニッポンには、この夢の力が必要だ」
と連呼している時点から、どうしてもそのフレーズになじむことができなかった。
なぜなら、ここでは「夢」を見る主体が「ニッポン」という国になっているからだ。
私には、国が見る夢というビジョンは受けいれがたい。
ついていけない。
もちろん、国そのものは夢を見たりしない。
ということはつまり、五輪を招致しようとしていた人々が目論んでいたのは、五輪を通じて日本国民が、共通の集団的な「夢」を見ることだったと考えるべきなのであろう。
でも、それでも十分に気味が悪い。
誰がいったい他人なんかと夢を共有できるというのだ?
(2016年7月8日掲載「夢はひとりで見るものだ」)
石塚:ああ、分かりますね。ちょっとそこまでの覚悟はないんだけど、私も決まりだからとか言われるとかえって反発するんですよね。「じゃあ、どういう決まりになっているんですか」ってちょっと問いただしたくなるし、新しいことをやるんだったら、例えばいろいろなソニーの新しいチャレンジとかでも、新しいことをやるとそれまでの概念が規定できていないところに踏み込んだりします。本当は、ルールは不変ではいけない、どころか、ルールこそ後からちゃんと変えていかなきゃいけないことがあるんですよね。
なるほど。
石塚:だから結構戦っていますよ、ソニーは。歴史的にも盛田(昭夫・ソニー創業者)さんの時代から、例えば古くはベータマックスの訴訟(文部科学省「ベータマックス事件の概要」)も経験していますし。私も特許裁判で、実際に米国の法廷に行って証言したことがあるんですけど、あれは「こっちが正しいと思ったらどこでも出ていく」という、盛田さんの姿勢を見習ってやっていたんですよね。だからうちのリーガルって強いんですよ。
けんか慣れしているんですね。
石塚:法律ってそもそも人間が、何か問題があったときに仲裁なり裁くためにつくったルールですから。法務から「だめだ」と言われても、それは従来の常識にのっとっての原則であって、ルールが想定外のケースの場合は、結局最後は「ビジネス判断で決めてください」となることも多いんですよね。
ということは、責任も戻ってくるんですね(笑)。
石塚:その通り、やってもいいけれど、その責任は自分で取らないといけないんですよね。自分で責任を取るということは、自分が出るところに出て、という、例えば法廷に出て、申し開きがちゃんと自分でできるかどうか。そこに最後は行き着くわけです。
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