友達はいつでもスタンド・バイ・ミー

 今回のラストは、東京女子大学学長の森本あんり先生。国際基督教大学の名誉教授でもあり、神学者でもある先生は、小田嶋さんとずっと同級生であり、学生時代を通して親しい友達でした。2021年には先生の書かれた『不寛容論』(新潮選書)を題材に、寛容についてお二人で話し合っていただきました(『不寛容論』に学ぶ、「不愉快な隣人」への振る舞い方)。この続きを近いうちに、と念じていたのですが、ついにかないませんでした。

In Memoriam

 2022年5月28日、13:19着信、15分通話――小田嶋と最後に話したのはいつだろう、と思って携帯電話の履歴を確認したら、そう記録があった。最近は便利なものである。その10日前、これもメールの記録から辿ったのだが、彼の編集者から突然連絡があり、ともかく小田嶋が話したがっているから電話をしてやってくれ、ということだった。すぐに何度も電話をしたのだが、つながらない。あちらからも電話があったようだが、わたしは気づかなかった。結局わたしがかけ続けていたのは間違った番号だった、とわかったのがこの28日なのである。その後しばらくして、そろそろまた電話してみようかな、と思っていたら、出張中の新幹線で訃報のメールを受け取った。

 小田嶋の追悼文なんて、わたしは書きたくない。彼のことなので、わたしより親しかった友人や仕事仲間はたくさんいるだろうし、「惜しい人をなくしました」的なアナウンスもあちこちで流されるのだろう。そんな言葉を読んだり聞いたりしたら、きっと小田嶋はそれをまたひとしきり自嘲ネタにして楽しむだろう。そういう役割は、他の方々にお任せしたい。それでもわたしがこれを書いているのは、半世紀以上前の旧友として、われわれが共有した何ごとかを書いて残し、彼の逝去に際して捧げておきたいと思ったからである。

 すでに何度か書いたことだが、わたしと彼は小中高と同級生で、とても親しかった。小田嶋は、昔から勉強ができて成績はいつもトップレベル。手先も器用で、ピアノもギターも見よう見まねでささっとできてしまう。何でもできるけれど、特に何かを一心不乱に追求してその道の達人になる、などということはしない。みっともないからである。

 ちなみに、古代ギリシアではこういう人を円環的な教養人と呼ぶ。たとえば、人は笛を吹く楽しみを知っていなければならないが、あまり上手すぎてはいけない。熟達しようとすると、人間性の他の部分を犠牲にして努力してしまうからである。「趣味といっても彼の腕前はプロ級で」などというのは、実のところ無教養の極みだろう。何にせよ適量を過ぎると、人は不幸になる。そのことを心底よく知っていた小田嶋は、結局のところまあまあ人生を楽しんだ幸せな人間だった。そう思うことにしたい。

 彼が電話で話したかったのは、仕事のことではない。しばらく牧師職にあったわたしの宗教的な慰めが欲しかったわけでもない。ただ、たわいもない話ができることを喜んでいた。すでに鎮静剤もかなりの量になっているようで、メールを打つのもしんどいし、お見舞いなんてもっと疲れるから、電話で話すくらいがちょうどありがたい、ということだった。ツイッターなどとは縁のないわたしは、彼の病状が終末期まで進行していることも知らなかった。たぶんそうだろう、と思った彼は、「いきなり自分の訃報が届くのも何だから」ということで、わたしに心の準備をさせるために話したかったのだ。

 電話の向こうで彼は、ゆっくりとした口調でこぼしていた。「あらいゆうこうも、ひろせだいぞうも死んじゃったし、もうオレとあんりが覚えている人って、このあたりに誰もいないのよ。」わたしは、その二人の名前は覚えているし、どのあたりに住んでいたかも覚えているが、いつどのように亡くなったかは知らない。

 高校で同級生だった岡康道のことは、二人で一緒に高校の同窓会誌に書いた。当時からやたらに大人びていて、どこか陰のある魅力的な人物だった。メディア界の有名人になった彼を、わたしは小田嶋を通して間接的に知っていたくらいだが、「今度3人で何かやろう」と企画を話しているうちに、彼は亡くなってしまい、それを小田嶋はとても残念がっていた。おそらく、そうやって先に逝った人たちのことを順に数えながら、おぼろげに自分の行く末を見つめていたのだろう。最後は、「あっちに行ったら、岡によろしく」「うんわかった」というお出かけの挨拶だった。



 高校卒業後の小田嶋のことも、わたしはまったく知らない。これも何度か書いたことだが、わたしにとって小中高は暗黒時代だったので、その後の人生ではできるだけ近づかないようにしていた。小田嶋隆という名前も、パソコン誌にテクニカルライターとして書いた彼の記事で知っていただけである。ところが、卒業して30年ほど経ったある日、突然連絡をもらい、彼の担当するラジオ番組で対談することになった。わたしが『反知性主義』(2015年)を書くより数年ほど前のことである。

 その時の対談の内容は忘れてしまった。だが、この再会はわたしの人生に大きな意味をもった。収録が終わり、近くの喫茶店でくつろいでいた時のことである。彼は、わたしが忘れていたこと、というより記憶の底に押し込めて忘れようとしていたこと、をぽつぽつと語ってくれたのである。

 高校生のある日、例によって授業を抜け出したわれわれ2人は、学校の裏手に新しく地下鉄の駅が建設されつつあるのを見つけた。現在の三田線千石駅である。小田嶋の回想によると、その時わたしは、中へ入ってみようと言い出し、勝手にシャッターをがらがらと上げて、暗い駅の中へ降りていったという。そんなことをして大丈夫かな、と思っているうちにホームに着くと、今度はさらに線路へ降りて歩くという。それはさすがにまずいのではないか、と彼は思ったそうだが、わたしがずんずん先へ行ってしまうので、結局2人して巣鴨へ向かって歩き始めた。すると、案の定途中で向こうから試運転の電車が轟音と閃光とともに走ってくる。恐怖に駆られたわれわれは、ひたすら壁に張り付いてやり過ごそうと思ったが、急停止した電車の車掌にとっつかまり、2匹のねずみのように連れて行かれて、駅でこっぴどく叱られた、という話である。

 今から思うと、叱られただけで済んだなんて、信じられないほどラッキーな話である。ことによったら生命すら危なかっただろう。そんな彼の問わず語りを聞いて、ようやくわたしも思い出した。だが、思い出したのはその出来事だけでなく、その時自分が何を考えてそんな愚かなことをしたのか、ということだった。わたしはその時、「悪いことをして冒険してみたい」というより、「これで死んでしまってもいい」と思っていたのである。それが当時のわたしの暗澹とした現実だった。小田嶋は、地下鉄の線路くらいに暗かったわたしの実存の闇を、命がけでいっしょに歩いてくれた友だったのである。

 しかもわたしは、そのことを30年以上も忘れていた。小田嶋の話を聞いてはじめて、そんなにも長い間そのことを忘れて、自分の人生を生きてこられた、ということを発見したのである。自分は、忘れたい過去と縁を切って、30年も過ごすことができた。だから今では、それを思い出したり話したりしても平気である。気がついたら、そういう自分になっていた。そのことを、小田嶋との再会が悟らせてくれたのである。忘恩もはなはだしいし、ちょっと遅すぎるのだけど、小田嶋ありがとう。

(文:森本 あんり)

2019年5月31日掲載「『死にたい人』の背中を押すなかれ」より
2019年5月31日掲載「『死にたい人』の背中を押すなかれ」より
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