兄の親友、小田嶋隆を弟はどんな目で見ていたのか

 次は20年に亡くなられた小田嶋さんの親友、岡康道さんの弟、岡 敦(あつし)さんです。敦さんには日経ビジネスオンラインで「生きるための古典 ~No classics, No life!」を連載していただき、集英社新書から『強く生きるために読む古典』として刊行されました。兄の親友としての小田嶋さんを、敦さんはどのような人だと感じていたのでしょうか。

 なお、岡康道さんへの小田嶋さんの追悼文は「『旅立つには早すぎる』~追悼 岡 康道さん」、小田嶋さん、岡康道さんと岡敦さんの鼎談(ていだん)は「もう一度読みたい」の、「人生の諸問題」再録、「無責任なり、60年代野郎!」からお読みいただけます。

小田嶋隆追悼文

1:

 兄は自分の高校時代を振り返るたびに、こんなことを言っていた。
 「オレ、高校で小田嶋に出会っただろ。アイツに自分の文才の限界を思い知らされて、文筆の道をあきらめたんだよ」
 一昨年の夏の兄の葬儀の日に、小田嶋隆と話しているうち、そのことが話題になった。すると、「いや、それはあくまでヤツ一流のレトリックであって……」と彼は謙遜以上の強い口調で否定した。

 そうだ、あの発言は兄のレトリックだったかもしれない。しかし、高校時代の兄が心の底から小田嶋隆の文才に驚嘆していたのは事実だ。
 おぼえている。
 中学一年のときだった。ぼくは小田嶋隆に会った。
 三つ上の兄が連れてきた、高校の同級生だという。
 あの年頃の三歳の差は大きくて、体格も内面も子供と大人の違いがある。
 声変わりもしていないぼくに、小田嶋隆がどんな人間で何を考えているかなんて、わかるはずがない。
 それでも、高校一年の彼の言語表現の技術とセンスは素晴らしく、子供のぼくでも驚いた。ぼくは気おされたし、そんなぼくの顔を見て、「な、すごいだろ」と兄は嬉しそうだった。

2:

 それから一、二年も経った頃。
 高校から戻った兄が、小田嶋隆が作った回文(「竹藪焼けた」のように上から読んでも下から読んでも同じ言葉になる短文)を教えてくれた。授業の合間の休み時間の、高校生の戯れに過ぎないのだから、兄も作った本人もきっとすぐに忘れてしまっただろう。でも、ぼくは忘れない。それは、こんなふうだった。

  弱いな隆
  仕方ないわよ

 声に出してみれば七字七字の繰り返しで語調が良い。一文ではなく対話になっているのもおもしろい。
 けれども、驚いたのはそこではない。
 即興で作ったほんの冗談でありながら、同時に、その頃の彼のありさまを端的に言い表しているように思えたのだ。一編の私小説のよう、と言えば言い過ぎだが、その時はそんな気がした。

 こんなオフザケとも本気ともつかない形に瞬時にまとめあげて自己表現をしてみせるなんて!

 文章表現の技術と、そんな技術を身につけずにはいられない内面、その両方をあわせて文才と呼ぶのだとすれば、ぼくは回文に笑わせられながら、まさに彼の文才の凄みを見せつけられて、不意に氷を背中に押し当てられたようにゾクリとした。

3:

 十代の彼は強い羞恥心を持っていた。
 いや彼だけではない。当時、1970年代の若者はみな「恥ずかしがっていた」とぼくは言いたい。

 ありきたりのことを言う、いかにも言いそうな言葉を発する、時代遅れで鮮やかさを失った理屈を口にする、誰もが考えることを独自の見解のように語る……そういった鈍感さに遭遇すると、ぼくらはたまらない恥ずかしさを覚えた。
 当然、自分自身がありきたりの言葉を口にしてしまうなんて、そんな醜態は何が何でも避けなければならなかった。

 では、しかし、ありきたりでなく振舞うことなど、できるものだろうか。
 そもそも、ありきたりを避けようとする態度自体がありきたりだろう。
 「あえて、ありきたりに徹する」というアイデアもとっくにありきたりになっていた。
 何を考え何を試みようと、ぼくらはますますありきたりになっていく。

 こんなふうに自分の「ありきたり」ぶりを意識し始めると、自分の言動の何もかもが恥ずかしくなって、ついに何もできなくなってしまう。70年代の羞恥心とは、自分を封じ込めてしまうこの自己批評意識の現れのことだ。

 彼の批評意識とその表現はあの頃も刃のように鋭かったから、それは彼自身の手も傷つけずにはいなかった。彼は誰よりも鋭く自分を批評し嘲笑して、羞恥に苛まれ、自分の能力を封じ込めて弱めていた……ように思われた。

4:

 ぼくの目に映る彼は、いつも笑いながら苛立っているようだった。あるいは苛立つがゆえに、それを笑いに転化してやり過ごそうとしていたのだろうか。

 いかにもありきたりな言葉に触れると、彼は恥ずかしさに居たたまれなくなって笑い出す。笑いでは収まらず、しばしば攻撃に転じる。冷たい笑いの混じった熱い言葉の奔流を、容赦なく批評対象に浴びせかける。
 偏狭だからではなく、意地悪だからでもなく、ただ、彼の強すぎる羞恥心ゆえに。

 はじめから彼の批評は「芸」になっていたから、彼の言葉を直接、あるいは兄を通して聞くたびに、ぼくは笑い転げ、感心した。そして思った、彼はぼく自身も生きているこの時代を、誰よりも敏感に感受し生きているのだと。そしてこんな優れた同志がいる頼もしさと、痛々しい共感とを覚えるのだった。

5:

 最後に彼が好きだった作家、三島由紀夫の言葉を引用する。
 三島はここで、一つの時代を生きる青年の苦悩の中に「時代の本質」を見ようとしている。

〔政治的、社会的、経済的背景を〕ぬきにして「時代の悩み」だけを抽象化してとりだして見ようとする我々の企図が誤りだとしても、その時代時代の青年の心にはきっとそういう抽象化された「時代の悩み」が生きていたにちがいない。そういうすべての外的なものと切り離された「時代の悩み」はそれと時代をともにしたもののみが知りうるので、そして時代とともにもっとも早く滅びゆくものもこの種の悩みで、おそらく同時代の青春時代だけに生きたのち、その人たちの老後には枯れ果てて記憶もとどめなくなるものかもしれない。それだけにこの種の悩みは生き物であり、時代の本質はそこに宿るのだとも考えられるし、それは時代という自然から生まれ出た一羽の黒い不吉な蝶々、早世の蝶々とも見られるであろう。後世の文学者は意識するとせぬとにかかわらず、その時代を扱った文学の中に、この一羽の黒い蝶々を生々とはばたかせようと願わなかったものはあるまい。

(三島由紀夫「私の文学」『生きる意味を問う』大和出版、1984年より引用)

 小田嶋隆へのお悔やみの言葉も述べずに、ただ昔の話を書いた。
 これで彼を偲び彼を語ったことになるのか、よくわからない。
 もしかしたら、彼には迷惑かもしれない。50年も前のことなんかとっくに忘れたよとか、アツシの眼にそう映っただけだよと言われるかもしれない。あるいは、おい、なんだよ羞恥心って、と鼻で笑われるだろうか。

 でもぼくは書きたかった。

 いや、書きたかったのではない。
 本当は、同じ時代のあの気分を共に生きた彼と、たとえば十年後にでもこのような昔話をしたかったのだ。
 「当時は、どうだったの」なんて尋ねたり、あきれたり、見直したり、いっしょに笑ったりしたかった。
 ひどいじゃないか、と文句も言いたかった。
 ぼくの内面の大事な部分を育ててくれてありがとう、と照れ臭いけれど御礼も言いたかった。

 そんなことも、もうできないのだから。

(文:岡 敦)

2019年7月19日掲載「誰かを落とすための一票だってある」より
2019年7月19日掲載「誰かを落とすための一票だってある」より

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