先週は、当欄の執筆を断念した。
 奇妙な言い方だ。
 ふつうは、「お休みをいただいた」と書くところだ。

 しかし、私は、この言い方を好まない。

 なぜと言うに、私は誰かに執筆を命じられて働いているのではないし、許可をもらって書いているわけでもないからだ。もちろん、不特定多数の読者に記事掲載の機会なり媒体を「いただいて」いるのでもない。
 だが、昨今の常識では、あらゆる機会なり動作なりを、誰かに「いただいたもの」として表現するのが通り相場になっている。

 たとえば、天皇皇后両陛下の長女である愛子さまは、3月17日の成年の記者会見に際して、
「一つ一つのお務めを大切にしながら精一杯務めさせていただきたい」
 と、「させていだたく」形式の言い回しを使ってスピーチをしている。

 愛子さまの日本語が間違っていると言っているのではない。
 気に食わないと申し上げているのでもない。

 ただ、私としては
「させていただく」
 について、
「ああ、ついに皇室の人間が口にする言い回しになったのだな」
 という感慨を抱くに至った、と、そういうことです。

 「させていただく」は、今後、文字通り、国民的な常識として、ますます普及していくだろう。

 語法として常識化するだけではない。
 「させていただく」は、「ものの考え方」ないしは「行動規範」として、われら21世紀の日本国民の脳内をやんわりと支配していくはずだ。
 というのも、なにかを「させていただいて」いる限り、われわれは、主体的な人間ではあり得ないからだ。

 「させていただいている」人間は、誰かに命令され、許可を与えられ、あるいは促されるなり暗示されるなりして、自身の動作に従事している。
 もっと言えば、彼または彼女は、自由意志と自己責任を放擲している。
 つまり、「させていただいている」人間は、自分で決断して、本人の意思と責任において動き出すことを断念して、誰かに使役される受動的なロボットとして世界に対峙しているのだ。

 あるいは、この10年ほど、なにかにつけて個人の自由意思と自己責任を強調する新自由主義の考え方が力を持ち始めているのは、「させていただく」語法が、人々から自由と責任を奪い去っているように見えることへの反発が作用しているからなのかもしれない。

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