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 どこかの国で戦争がはじまると、世界中の世論が沸騰する。
 当事国の国民の声が大きくなるだけではない。戦争を対岸の火事として眺めている国や地域の人々も、同じように興奮している。

 テレビの画面では、戦地の現況を伝える動画や、政治家によるエモーショナルな演説が繰り返し再生される。それらを見ている世界中の人々のアタマの中身は、いつしか「戦時モード」に切り替えられている。

 沸騰の方向は必ずしも一定していない。

 結果としてポピュリズム志向の政治家が支持を集める国もあれば、別の国では、むしろ「強いリーダー」への警戒心が高まっていたりもする。
 戦争報道が、強硬派を利することになるのか、逆に、彼らを表舞台から追い落とす結果をもたらすのかは、現時点では不分明だ。短期的な影響と、中長期的な影響が逆方向に作用するのはよくある展開だし、第三国の世論は、戦局の推移や、その時々のエポック次第で、思わぬ方向に流れるものだからだ。

 ともあれ、戦争が起こると、国際世論は、熱を帯び、単純化し、先鋭化し、いくつかの方向に分裂し、やがて相互に対立する。そして、シンプルに平和を求めるいわゆる「お花畑の理想論」が力を得る一方で、その理想論を一蹴する冷徹ワナビーの「現実論」が人気を集めたりもする。

 最終的に、世界がいずれの方向に向かうのかは、最後まではっきりしない。

 現時点の議論がもたらすであろう結末について、私のアタマの中に、まるで考えが浮かんでいないわけでもないのだが、それらに関しては、黙っておくことにする。

 理由は、私のようなド素人が思い描いている戦争のイメージは、うっかりすると有害な方向に利用されかねないからだ。だとすれば、黙っているに越したことはない。イメージはどこまで行ってもイメージにすぎない。系統立った理屈に裏打ちされていないのであれば、それらは、他人に話して聞かせるようなハナシではない。

 典型的な任侠映画を見た後しばらくの間、典型的な観客は興奮している。
 ついでに申せば、興奮は、娯楽の一環でもあれば、作品の目的でもある。

 映画の中に出てくる特定の登場人物に共感して、半日ばかり怒りっぽくなったり、言葉づかいが荒くなったりすることもまた、大きな目で見れば、娯楽の範囲内ではある。その意味からすれば、感情に流されることや、直情的に振る舞うことそのものは、必ずしも悪いことではない。
 私たちは、時に、外部から与えられる人工的な喜怒哀楽にわが身を委ねて、疑似的な怒りや、フィクショナルな悲しみや、白々しい笑いに陶酔することで、感情を活性化させている。そうしていないと、現代人は退屈な日常に耐えることができない。

 よその国で起きている戦争は、であるからして、映画と同じく、もっぱら娯楽として消費される。
 娯楽として消費されるということは、戦争が、ファクトとしてではなくて、視聴者の感情をゆさぶるネタとして利用されることを意味している。

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