7月末にはじまった入院生活から、自分が、いまもって復帰できていない感じがして、いろいろ困惑している。
 たとえば、目の前で起こっている政治的だったり社会的だったりするできごとに、まっとうな興味を抱くことができないのだ。
 なので、今回は、とりあえずアタマに浮かんだことを順繰りに書いていくことにする。もしかしたら、理想的なエッセイはこんなふうに書かれるべきなのかもしれない。

 ともあれ、8月の半ばには退院がかなったのだが、正直なところを申し上げるに、いまだに社会復帰できている実感を持っていない。

 「社会復帰」というのは、何度か入院した経験を持つ人間にとっては、なかなか味わい深い言葉で、なるほど、たしかに一般の人間が形成している「社会」は、入院患者にとって「復帰」を意識してかからないとなかなか参加のかなわない、ハードルの高い場所なのである。逆に言えば、入院という経験は、そのまま社会からの「脱落」を意味している。

 ひとたび入院患者になってみると、自宅で過ごしていた期間に、なんの疑問もなく自分が採用していた時間の使い方や、食べ方や考え方や運動のしかたのすべてが、どこかしらかたよっていたことを思い知らされる。
 病院では、すべての行動を院内の規則に沿って組み直さないといけない。
 具体的に言えば、起床、消灯の時刻から、テレビを見て良い時間や散歩に出かけて差し支えない範囲まで、事細かに決まっている。もちろん、食べるものも、食べてかまわない時間も、食べなければならない理由も、すべては先方が決めることになっている。ということはつまり、患者には選択の余地がない。
 着るものから食べるものから歩く範囲までの一挙手一投足のすべてを、外部の人間に既定される生活をしばらく続けていると、当たり前の話だが、こちらが外の世界で信じていた「常識」があやふやになってくる。

 たとえば、テレビに対しては、全面的に関心を失う。
 もっとも地上波の電波経由で供給されてくるテレビ映像については、ずっと前から半ば興味を失っていた。というよりも、視聴習慣と呼ぶべきテレビの見方は、すでに10年前の時点で、おおむね壊れてしまっている。
 最近、テレビを介して視聴していたのは、定時のニュース番組のいくつかと、ナマで中継されているスポーツ競技に関連する映像に限られていたと言って良いかと思う。
 なにより、患者としての生活に適応せねばならない人間の常として、われわれは「外界」からの電波であるテレビを軽視するようになる。

「待てよ」
 と、患者は考える。
「卓球とかって、オレの守備範囲じゃないよな?」
 たしかにそうだ。オレは、元来、卓球には特段の関心を抱いていない。そう考えてみると、自分はそもそも卓球にもバレーボールにもレスリングにも、興味なんぞ持ってはいなかった。というよりも、実際のところ、オリンピックがどうなろうが、オレの知ったことではない。
 かくして、患者は、テレビ視聴から撤退し、ついでに社会的な関心それ自体を軽蔑するに至る。

「国会の休会についてどう思うのかって、オレにそれを聞くのか?」
「どうでも良いに決まってるじゃないか」
「いっそ《うるせえばか》としか返事のしようがないのだが、それでかまわないか?」
 てな調子で、患者は次第に浮世離れしていく。

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