つい3日ほど前、千葉県の八街市でいたましい事故があった。
 6月28日の午後、集団下校していた児童の列にトラックが突っ込んだのだ。
 県警によると児童5人が巻き込まれ、うち2人が死亡、1人が意識不明の重体、2人が重傷を負っている。県警は自動車運転処罰法違反(過失傷害)の疑いで、運転していた60歳の男を現行犯逮捕した。
 容疑者の呼気からは、基準値を超えるアルコールが検出されている。本人は「左に急ハンドルを切ったら電柱にぶつかり、そのまま子どもたちの列に突っ込んでしまった」と容疑を認めており、詳しい経緯を調べているという。

 こういう事故(子どもが犠牲になる事故)のニュースが伝えられると、テレビの情報番組は、オリンピックもコロナもすっ飛ばして、朝一番から容疑者憎しの空気一色でスタジオを埋め尽くしにかかる。
 ネットも同じだ。
 おかげで、ふだんは滅多に見かけることのない激越な呪詛の言葉が、ツイッターのタイムライン上を流れて行くさまを、この3日間、大量に目撃せねばならなかった。

 今回は、アルコールの話をしようと思っている。
 どうしてこんなカビの生えた話題をいまさら蒸し返すのかというと、八街で起こった事故の報道をきっかけに、飲酒という行為について自分が考えている内容と、世間一般の人々が「酒」という液体に抱いているイメージが、あまりにもかけ離れていることに気付かされたからだ。
 もちろん、浮いているのは私の方だ。
 私の見解は、孤立している。
 ということは、間違っているのは、私の方なのかもしれない。
 でも、私は、自分が間違っているとは思っていない。
 私は、むしろ、現代日本の社会の中で暮らしている一般的な人々の「酒」へのスタンスが、狂っているのだというふうに考えている。
 その日本人の酒についての誤った考えを攻撃しようとか、厳しく指摘して軌道修正させようとか、正そうとか教導しようとか全否定して爆破しようとか、そういう大それたことを企図しているのではない。

 ただ、ちょうど良い機会でもあるので
「オダジマは酒について、こんなことを考えている」
 というお話を、この場を借りてお知らせするつもりでいる。
 私がこれから書く内容に共感できない読者は、むろん私の見解に従う必要はない。
「なーに言ってやがんだ」
 と、いきなり退けてもらってかまわない。

 私自身、世間にあまた流布している様々な人々による千差万別なご意見を、時々刻々、目に付き次第
「うるせえ」
 のひとことで瞬殺している。
 他人の意見に耳を傾けることは、有益な態度ではある。しかしながら、騒々しい社会の中で生きて行く人間にとっては、相容れない他人の意見を無視することの方が、より現実的かつ重要なプリンシプルだったりする。
 私たちの耳にはおよそ雑多な説教や忠告が、昼夜を問わず、無差別に投げつけられることになっている。
 それらのほとんどを、われわれは、無視している。
 というよりも、
「うるせえ」
 と、他人の言葉を遮断し、黙殺し、廃棄し去る態度が、結果として、私たちの人格を独立させている当のものなのだ。

 そんなわけなので
「他人は地獄だ」
 という箴言こそが、先人が残してくれたアドバイスのうちで最も有用なものだと、私は、そう考えている。
 われわれの個性は、共感できない他人のアドバイスの陰画(ネガ)として自分たちの中に蓄えられる。それらの、いけ好かない意見を排除した後に残る外枠としてのカタチは、自分が自分であり続けるための最後のよすがに相当する。大切に扱わなければならない。

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