もうひとつ、上記リンク先の記事を読んで私が違和感を覚えずにおれなかったのは、記者が組織委の人間の言う「レガシー」発言を、まるで疑わずに
 《日本の将来を担う子供たちが生観戦できれば、東京大会の数少ないレガシーとなりそうだ。》
 と、そのまま復唱する形で記事を締めくくっている無批判さだ。

 このたびの「学徒動員」は、そもそも「無観客開催であっても」招集するという、とんでもない企画だ。どうして無観客開催が検討されているのかを考えれば(←もちろん観客の安全を考慮しての措置だ)その無観客の競技場に子供たちを招待することの無謀さは、それこそ子供にだって理解できるはずだ。
 記者として報道にたずさわっているのであれば、運動会や文化祭といったイベントの開催を断念している小中高校も多い中、海外から何万人もの選手や役員を招いて開催される国際大会に子供たちを呼ぶことのアンバランスさを指摘することは、重要な仕事の一部であるはずだ。

 ところが、この記事を書いた記者は、
 《東京大会の数少ないレガシーとなりそうだ。》
 と、書いて澄ましている。
 いったいどこを見て記事を書いているのだろうか。

 朝日新聞社が5月15、16日に実施した全国世論調査(電話)では、東京五輪・パラリンピックの開催の可否について3択で尋ねた結果、「中止」が最も多く43%、「再び延期」が40%、「今夏に開催」は14%にとどまったのだそうだ。

 要するに、少なくともこの調査においては8割以上の日本人は、「中止または再延期」が望ましいと回答していて、この夏の開催を支持する国民はたったの14%しかいないわけだ。

 かかる状況下で、開催を強行した場合、最大限に楽観的な見方を採用したのだとしても、五輪の開催を歓迎する国民は、せいぜい半数程度だろう。

 じっさいのところ、
 「なあに、無理やりでもなんでもひとたび開幕してしまえば、テレビや新聞がカネや太鼓で盛り上げるわけだし、メダルを取った選手をヒーロー扱いにするVTRが朝から晩までヘビーローテーションで再生される流れになれば、直前まで醒めていた国民だって、どうせ熱狂するに決まってるじゃないか」
 という観測は一部の冷笑家界隈では相変わらず支配的であるようだし、その種の見方ににまるで根拠がないわけでもない。なにより、自分たちが忘れっぽくも熱狂しやすいチョロい国民であることは、われわれ自身が誰よりもよく分かっている。

 ただ、それでも、五輪に対して良い感情を持っていない国民が、やはり5割程度は残るはずだ。
 国民の半数が喜べばそれで良いではないか、とはとても言えない状況だ。
 仮に、5割の国民が五輪に熱狂していて、残りの5割の国民が五輪を敵視するのだとして、その状況は、成功とか失敗を語るにふさわしいレベルのものではない。
 端的に申し上げて、スポーツをめぐって国論がふたつの陣営に「分断」されてしまっている前代未聞の不穏な世相であると見なさなければならない。

 私の知る限り、スポーツは、いつでも国民統合を促す便利なツールとして利用されてきた。政治や経済が、どんなに荒れている時でも、とにかくスポーツの世界で達成される快挙は、ほとんどすべての国民にとっての慶事であったわけで、そうであったからこそ、五輪を招致した人々は、スポーツへの国民の熱狂を政治的に利用する方途をさぐってきたはずなのだ。

 その、国民をひとつにまとめる光だったはずのスポーツが、国民をふたつの相容れない陣営に分断する刃になる……われわれは、どうやら、現在、そういう極めて厄介な局面に迷いこんでいる。
 おそらく、東京五輪・パラリンピックは、強行開催されることで、かえって国民の間に不安と敵対感情を撒き散らすことになる。
 メダリストを英雄視する人々と、アスリートを敵視する人々が、互いに罵り合う近未来が、すぐそこまで来ている。
 私は、できればそんな景色を見たいとは思わないのだが、これは、五輪を招致した人々が自ら招いた災厄だ。われわれは、五輪の葬儀に立ち会わなければならない。とても残念なことだが。