ことここに至ってなお、開催を強行するシナリオで自らを鼓舞している人々は、中止を決断した場合にもたらされる破局や損失と比べて、強行した際に耐え忍ばなければならない混乱やドタバタのほうが、いくぶんかはマシなはずだと、そう考えて、既定の路線を突っ走っているのだろう。
 メンツの問題もある。
 じっさい、偉い人たちは、前言をひるがえすことができない。

 というよりも、偉い人は、自分の掲げたプランを決してひるがえさないことを証明し続けた結果として、現在の地位にたどりついた人々でもある。逆に言えば、その偉い人が、自らの設定した目標を簡単にあきらめる人間に成り果ててしまっているのだとしたら、彼がこれまでほしいままにしていた尊敬や信頼は、プランを断念したその瞬間に雲散霧消してしまうはずだ。

 してみると、偉い人が偉い人であり、偉くない日本人が偉くない日本人であり、国際オリンピック委員会(IOC)がIOCである限りにおいて、五輪は必ずや開催されるに違いない。しかも、その呪われた東京大会は、人類が経験した最も愚かな祭典として、長く歴史にその名を刻むことになるだろう。

 伝えられているところによれば、五輪組織委は、来るべき東京五輪・パラリンピック大会が、無観客開催になった場合でも、大会の会場に小中高生を招待するつもりでいるらしい。彼らは、どうやら、その荒唐無稽にして無慈悲な学徒動員プランをいまだに捨てていない。

 リンク先の記事は、この間の事情を
 《東京五輪・パラリンピック組織委員会が、今夏の大会を無観客開催とした場合でも競技会場に子供たちを招待する案を検討していることが18日、分かった。複数の組織委関係者が明らかにした。新型コロナウイルス下の異例の大会となったが、子供たちに世界的なスポーツイベントを体感してもらうことで、将来的な共生社会づくりなどへのレガシー(遺産)としたい考えだ。―略―》
 と伝えている。ともあれ、
 「子供たちに世界的なスポーツイベントを体感してもらうことで、将来的な共生社会づくりなどへのレガシー(遺産)としたい考えだ」
 という記事本文の空々しさの原因は、記者の文章力の貧弱さにではなく、取材先である組織委の人間の浅薄さに求めなければならない。

 それほどまでに、組織委の人間は疲弊している。彼らは、まともな日本人として標準的な日本語を運用する能力すら喪失している。

 五輪強行に邁進している人々が、これまでにつぎこんだ資金を多少なりとも回収しようと躍起になっている、その動機自体は理解できる。
 この話とは別に、五輪招致を主導した人間たちがメンツにこだわっているとか、競技団体が五輪を契機に獲得した予算と役員ポストに拘泥しているとか、政権中枢が五輪中止による選挙戦へ悪影響を懸念しているとかいった、そのあたりの事情についても、アタマから否定しようとは思っていない。
 変な言い方に聞こえるかもしれないが、私は、欲得ずくの思惑で五輪を開催しようとしている人たちの気持ちは、原理的に理解可能だと考えている。

 じっさい、五輪が大きなカネの動くイベントであることはまぎれもない事実でもあれば、動かしようのない現実でもある。
 だとすれば、人々がカネ目当てで五輪に群がるのは当然の帰結だ。
 むしろ、五輪に金銭的な利得を期待することを責めている人々の言い分のほうが、筋違いであるとさえ言える。
 であるからして、私は、利益誘導目的で五輪の看板を利用している人々に対しては、歩み寄りが可能だと思っている。

 むしろ、私が一貫して嫌悪感を覚えるのは、五輪を
 「夢」
 や
 「勇気」
 や
 「絆」
 や
 「共生社会」
 といったなにやら美しい概念の供給源として利用している人間たちが発している猫なで声だったりする。

 先に紹介したリンク先の記事は、
 《―略― 組織委の橋本聖子会長は五輪相時代から「オリ・パラ教育」を重視。東北地方の被災地などへ足を運んだ際に、アスリートとじかに触れ合った子供たちの吸収力を実感したそうで「経験者の声をいかに子供たちの世代へ伝えていくかが重要と思う」と話している。招待できる人数は未定で、アスリートとも直接触れ合えないが、日本の将来を担う子供たちが生観戦できれば、東京大会の数少ないレガシーとなりそうだ。》
 という文章で締めくくられている。
 いやな書き方だ。