とはいえ、コロナ禍の渦中で抑圧を感じているわれら日本人が、ギスギスした世間の空気にうんざりしていることもまた事実ではある。
そんな中で、たとえば
「プロテストする人々」
「抗議する女性」
「声をあげる人間」
として活動せざるを得ないフェミニズムの活動家は、どうしても嫌われ役を自ら進んで担うことになる。
フェミニストだけではない。
差別や偏見にさらされていたり、パワハラやモラハラの被害に苦しんでいたりする人々は、その自分たちへの不当な抑圧や攻撃に、反撃し、反発し、抵抗する行為を通じて、結局のところ世間に嫌われる役回りを演じることになる。
なんと理不尽ななりゆきではないか。
告発者として振る舞うことのコストは、社会が抑圧的であればあるほど、無制限に上昇する。
告発者は、ただただ身に降りかかる火の粉を振り払っているだけなのに
「密告者」
「チクリ屋」
「金棒引き」
などとされ、さらなる迫害を受けることになる。
今回のように、女性蔑視をめぐって、3つの異なった場面で、3件のよく似た告発案件が報道されたりすると、「抗議者」「告発者」は、SNS上では、それこそゲシュタポじみた扱いを受けるに至る。
「企画をツブし、担当者のクビを飛ばし、人々を黙らせ、CMを引き上げさせ、ている《女性》という人たちのどこが一体弱者なんだ?」
「女性蔑視案件って、事実上は万能首切りツールじゃないか」
「っていうか、秘密警察ムーブだわな」
「魔女狩りだよね。魔女による」
「魔女を魔女だと言った男は魔女だ式の?」
なんとも悲しい反応だ。
一定の地位や権力を持った人々は、抗議されたり告発されたりすることをひたすらに恐れている。
であるから、彼らは抗議や告発や怒りを外部化しようとする。
ちょっとわかりにくい話をしている。
私は、抗議され、告発され、怒りを向けられている側の人々が、その抗議や告発や怒りに直面したがらない傾向についてのお話をしている。
では、彼らはどんなふうにそれらを処理するのだろうか。
彼らは、自分たちに向けられた、抗議・告発・怒号が、自分たちの行動や言葉に由来する反応だとは考えない。
彼らは、それらを、抗議・告発・激怒している側の感情の問題として定義し直す。まるで魔法みたいな論理だ。
次に、彼らは告発の主客を転倒させる。
自分が告発者を怒らせたというふうには考えない。
その代わりに、自分が告発者の怒りの対象になったと言い換えることで、自分を「透明な存在」に置き換えつつ、告発を、相手側の感情の問題として外部化するのである。
その魔法みたいな理屈のひとつの成果が
「怒られが発生した」
というネットスラングだ。
彼らは自分が怒らせたとは考えない。
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