ほかにもたとえば、産経新聞のこの記事
 などは、苦情社会の息苦しさを代弁した典型例だろう。

 これも、「一理ある」と言えばその通りなのだが、
《エンターテインメントの世界で活躍する渡辺さん本人が寄せたコメントの全文を読むと、侮辱されたとは思っていないのも分かる。》
 という増田明美さんによる要約は、端的に間違っている。
 渡辺直美さんは、事務所を通して出した公式コメントの中では、ご自身の感情を明らかにすることは控えている。
 しかし、YouTubeチャンネルでの言及を報じた記事によると
《-略- 一部で「芸人だったらやるでしょ」という声も受けたといい、「もしもその演出プランが採用されて、私のところに来たら私は絶対に断るし、その演出を私は批判すると思う。目の前でちゃんと言うと思う」と断言し「だって普通に考えて面白くないし、意図がわからない」と説明していた。-略-》
 と、ここでは演出への感情を表明している。

 何が言いたいのかを説明する。
 3連続で炎上した女性蔑視案件の報道を受けて、いま、世間では
 「苦情を言う人」
 「抗議する人々」
 「不満を述べる人間」
 「怒りを表明する者」
 「群れ集って抗議行動を起こす団体」
 に対する、忌避感が急速に高まっている。
 「あーあ、めんどうくさい人たちだなあ」
 てな調子で
 「わきまえない女たち」
 への嫌悪感が増幅しているというふうに言い換えても良い。

 昨年来、もっぱら海の向こうから伝わって来ていた「#MeToo」やBLMの運動への反発を核としてひとつの勢力を形成しはじめていたネット言論が、ここへ来て、いよいよ形をなしはじめている感じだ。

 その感情をひとことで表現すれば、あるいは
 「うっせえわ」
 ということになるのだろうか。
 面白いのは、この
 「うっせえわ」
 の声が、権力や、政治や、体制には決して向かわないことだ。

 「うっせえわ」
 という、この穏やかならぬ感情は、むしろ、もっぱら、権力や体制や政治に抗議する人々に向けての叫びとして、ぶつけられはじめている。
 私は、このことにとても強い警戒感を抱いている。

 もっとも、こんなことを言っている私とて、個人的な感情としては、機嫌の悪い人よりは機嫌の良い人の方が好きだ。怒っている人よりはニコニコしている人々と付き合いたいものだとも考えている。
 ただ、人はいつも機嫌良く暮らせるわけではない。
 特に、現実に苦しんでいる人は、そうそうニコニコばかりもしていられない。当然だ。
 だからこそ、他人の不機嫌や怒りに耳を傾ける態度を持たないと、世の中は、恵まれた人だけが得をする場所になってしまう、と、少なくとも私はそう考えている次第なのだ。

 「いつもニコニコしている人」には、二通りのパターンがある。
 ひとつは「他者に不機嫌な顔を見せないマナーが身についている極めて人間のできた人々」で、もうひとつの類型は「単に恵まれた人たち」だ。
 「いつもニコニコしていること」を個人の目標として掲げることは、決して悪いことではない。むしろ、素晴らしいことでさえある。
 しかしながら、その一方で、「いつもニコニコしていること」を、他人に求めることは、時に、あからさまな抑圧になる。