私は、第一感で
「四季ならどこにだってあるだろ」
「4つに分けるのかどうかはともかく、地球上で人間が居住している地域であれば、当然、固有の季節的な気候変動はあるよな」
と思ったものなのだが、落ち着いて考えてみれば、この回答のキモは、
「日本に四季があること」
そのものや
「日本の四季が美しいこと」
にあるのではない。
むしろ、人々が日本を愛する理由として「四季があること」を挙げたのは、彼らが、
「四季の変化を繊細に感じ取るわたくしども日本人の感覚の特別さ」
を強く意識していることの反映と考えるべきだ。
つまり、桜や紅葉や四季折々の風物の話をする時、われら日本人は、自分たちを世界に類を見ない繊細な感覚の持ち主として特別視するモードの中にいるわけなのである。
それゆえ、あるタイプの文芸愛好家は歳時記を暗記することで、自分の感覚がいよいよ研ぎ澄まされると思い込んでいたりするわけなのだが、それはそれとして、「季節」は、日本人に、「特権意識」を醸成せずにおかない。
どういうことなのかというと、「季節感」は私たちの中に
「これほどまでに季節の変化に敏感で繊細で上品でセンスの良い特別な私たちであれば、諸外国の野蛮な人たちとは別次元の何かを達成できるはずだ」
という夜郎自大を育てるのである。
昨年の6月、わが国の新型コロナウイルス感染による死亡者が、国際水準から見て異例に低い水準にあった当時、麻生太郎副総理がその理由について
「国民の民度のレベルが違う」
と発言したことがあった。
さらに、麻生副総理は、この時に「民度」発言を批判されたことを根に持っていたらしく11月に再び同じ言葉を持ち出して日本人の「民度」を誇っている。
個人的には、一国の政治家が「民度」という言葉を使うこと自体、不見識極まりない態度だと思う。ついでに言えば、メディアは「民度」なる概念の差別性について、きちんとした見解を示すべきだとも考えている。
とはいえ、麻生副総理による二度にわたる「民度発言」が、それほど大きな問題にならず、結果としてスルーされたことは、やはり軽視できない。
どうして、スルーされたのだろうか。
答えは簡単。
スルーされた理由は、麻生さんがあらわにした他民族へのあからさまな偏見が、国民の間に広く共有されている国民的偏見だったからだ。
私はそう思っている。
どんなにひどい偏見であっても、国民の多数派が同じ偏見を抱いているのであれば、それは「偏見」として扱われない。
けしからぬ「偏見」として血祭りに上げられるのは、少数派の人間が抱いている少数の「偏見」だけなのだ。
つまり、麻生さんが思っている(そして口に出して言ってしまってもいる)
「日本人は民度が高い」
という偏見(←これは、諸外国の国民は民度が低いという偏見とセットになっている)は、われら日本人の共通認識なのである。
そして、その日本人の民度の高さを証拠立てるひとつの傍証が、
「日本人の季節感の繊細さ」
「桜を愛でる日本人の心根の潔さ」
だったりするのだね。
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