以下、一応説明をするだけしてみる。

 私が桜に強い印象を抱くようになったきっかけは、20代の頃にアルバイトをしていたラジオ局でいくつか話を聞かされたからだ。
 その話というのは、
 「上野で花見をしている人たちはどうかしている」
 という、ごく当たり前のエピソードだった。
 普通なら
 「知ってました」
 と答えてそれでおしまいになる話だ。
 しかし、話はそこで終わらなかった。
 「でもなオダジマ。おまえはわかってないぞ」
 と、その私より3歳ほど年長の、ベテランのキャスタードライバーだった女性は強い調子で断言した。
 「上野で花見をしている男たちが、どれほどアタマがおかしいのかは、その場でその狂った人間たちに囲まれた女じゃないとわからないんだよ」
 と彼女は言った。
 大柄で、ふだんはこわいものなどひとつもなさそうに見える彼女が、
 「本当にこわかった」
 と振り返った現場は、後にも先にも上野の花見中継以外に存在しない。
 彼女以外にも、ラジオのナマ放送で花見の現場中継をこなしたことのある女性リポーターは異口同音に花見客の異常さを訴えたものだった。
 「地獄だよ。あそこは」
 と。

 1週間も前から新入社員に場所取りのための野宿をさせることで上野の一等地に花見の宴の席を確保するタイプのオフィスには、やはりそれなりに狂った社員さんたちが集まるものらしく、彼らの飲みっぷりと暴れっぷりとセクハラっぷりは、およそ言語を絶するものだったというのだ。
 もちろん、令和の時代の花見風俗は、1980年代前半の上野の花見ほどの狂態ではないのだろう。
 でも、基本は変わっていない。

 桜は、われら日本人を「花は桜木男は◯◯」式の、集団主義的な花びらの一片に変えてしまうことのできる植物だ。であるから、桜が咲いている時期、われわれは、忙しく散っていく花びらに思いをはせながら、極めて刹那的な人生観の中で暮らすことになる。

 だからこそ、桜は、
 「宴会」
 や
 「同期の桜」
 や
 「散らばもろともえいままよ」
 式の、自棄っぱちなフレーズを召喚しつつ、その枝の下で酒を飲む男たちを同期の桜という極めて刹那的な絆で紐帯してやまないのである。

 以前、何かの(たぶんテレビ番組の)アンケートで視聴者に
 「日本が好きな理由」
 を尋ねたところ、
 「四季があるから」
 という回答が、かなり高い順位(たぶん2位か3位)だったことに驚かされたことがある。