新型コロナウイルスの感染拡大を警戒する中で行われたバイデン米新大統領の就任式は、私がこれまでに見た大統領就任式の中で、最も地味なイベントだった。それでも、彼の国の人たちが、あの種の式典を演出するにあたって発揮する手腕のみごとさには、毎度のことながら感心させられる。

 とりわけ印象的だったのは、自作の詩を朗読したアマンダ・ゴーマンさんという若い詩人の素晴らしいスピーチと、その彼女の朗読に耳を傾ける聴衆の姿だった。
 なんと言うべきなのか、詩という文芸への尊敬を失っていない国の式典のありように、羨望の念を抱かずにはおれなかった。

 もっとも、私は、当日、ナマの朗読を聴いて、その場で英語の詩の意味を解したのではない。残念なことに、そういう能力を私は持っていない。私が「印象的だった」と言っているのは、その日のうちにネット上に流れてきた抄訳や、翌日の新聞に載った日本語訳を参考にしながら、ゴーマンさんの作品を少しずつ読みこなしつつある現状を踏まえての感慨を述べたものだ。

 ちなみに、当該の詩の翻訳は、ネット上で検索すれば色々と出てくる。一例としては、このリンク先にあるものが映像付きでわかりやすい。

 海の向こうで、若い詩人が自作の詩を朗読してから一週間ほどが経過した頃、わが国では、内閣総理大臣が、
 「最終的には生活保護がある」
 という国会答弁を開陳して市井の善男善女を驚かせている(こちら)。

 彼我の間にある言葉の豊かさの違いは、いかばかりだろうか……というのが、今回の主題といえば主題だ。
 具体的には、詩の言葉と政治の言葉の間にある、どうにも埋めようのない溝について考えてみたいと思っている。

 私は、今世紀にはいってからこっち、メディアを介して紹介される政治家や著名人の言葉が、加速度をつけて貧弱になってきていることの原因のひとつが、もしかしたら、詩という文芸がかえりみられなくなっているところにあるのではなかろうかという疑念を抱きはじめている。

 もちろん、自分で言っていることながら、このお話が当てずっぽうである旨は自覚している。それに、もっともらしく聞こえようが、インチキくさく響こうが、この種の当て推量は、どっちみちファクトとして証明できるような事柄ではない。

 ただ、自分ながら当てずっぽうだと考えている一方で、40年近く言葉を扱う仕事に従事してきた人間が言葉について抱いている直感は、そんなにバカにしたものでもないはずだというふうにも思っている。

 好意的に解釈すればだが、菅義偉首相は「訥弁(とつべん)」の人だ。

 ついでに、私自身の個人的な好みの話をしておくと、私は、昔から「能弁」だったり「雄弁」だったりする人間よりは、「訥弁」で言葉数の少ない人に好意を抱くことになっている。

 というのも、わが国のような社会において、言葉を飾ることの巧みな人間は、その内実において薄っぺらであるケースが多いからだ。
 なので、当初、私は、菅さんの訥弁に必ずしも悪い印象を持っていなかった。
 「この人は説明がヘタだなあ」
 とは思ってはいたものの、その説明のヘタさ自体を政治家としての致命的な失点とは思っていなかったのだ。

 しかしながら、政権発足から半年を経て、様々な場面で見当外れな言葉を聞かされるうちに、私は、この人の訥弁を、単なる不器用さによるものだとは解釈できなくなってきている。
 無論、誠実な人柄がもたらす副作用の類だとも思わない。

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