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 この何日かネット上で話題になっているナイキのCMは、すでにご覧になっただろうか。

 YouTube経由で随時再生可能なので、この先を読む前にぜひ視聴していただきたい。
 この動画を見て何を感じるのかは、人それぞれだろう。
 私は、とても感心した。

 明らかなメッセージを発信していながら、それでいて押し付けがましさを感じさせない上質な映像作品を、2分間のストーリーにさらりとまとめあげている腕前に感嘆した。こういうセンスを備えたクリエーターが登場しているわが国の現状に希望を感じたと申し上げても良い。

 このCMを「炎上」という言葉で紹介しているメディアがいくつかある。メディアの人間が、特定の話題に「炎上」というタグを貼り付けることで、読者や視聴者を誘引しようとする態度の悪辣さには、毎度のことながら、うんざりさせられる。大げさに言えばだが、この種のコンテンツに寄せられる賛否両論を「炎上」と呼んでフレームアップする態度こそが、このCMの中に登場したアスリートの卵たちを抑圧しているものの正体ですらある。

 今回は、件のナイキのCMへの反響からうかがえるわが国の抑圧の構造について考えてみたい。

 当初、私はこのCMには言及しないつもりだった。
 理由は、丸一日ほど出遅れてしまったからだ。
 この種のセンシティブな話題について何かを言う場合、言説の内容そのものよりも、タイミングが重視される。
 少なくともツイッターの世界では、賛否いずれの意見を表明するのであれ、反応が早いほど尊敬される。逆に言えば、2日遅れみたいなタイミングで、この種の「炎上案件」に言及するアカウントは、発言内容の如何にかかわらず、軽んじられるということでもある。

 なんというのか、
 「ああ、オダジマは、周囲の反応をひと通り見渡した上で、びくびくしながらいっちょかみしてきたわけだな」
 というふうに見られてしまうわけなのだ。

 この評価傾向にはマッチョイズムが深く関わっている。
 というのも、一番乗りでコメントを書き込むことには、それだけ高い炎上リスクが伴っているわけで、実行するためにはそれなりの度胸(というよりも「無謀さ」だが)が必要だからだ。そして、小学校四年生段階の子供っぽいマッチョは、火中の栗にいきなり手を突っ込みに行く無鉄砲なトライをなによりも高く評価する傾向を備えているからだ。
 それゆえ、炎上ネタへのリアクションは素早ければ素早いほど男らしい態度として喝采を集める。

 内容は問わない。
 「最高じゃん」
 でも
 「クソだな」
 でも、どっちでも良い。