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 ディエゴ・マラドーナが死んでしまった。
 多少ともサッカーに関わりを持ったことのある人間は、誰もが落胆していると思う。私も同じだ。朝方に第一報を知って以来、茫然としている。
 本来なら、今回はマラドーナ追悼のためのテキストを書くべきなのだろう。

 ただ、私は、読者を納得させるに足る文章を書く自信を持てない。たぶん、マラドーナについて私が書くテキストは、ひどく個人的な話になる。その個人的な話が普遍性を持っているのなら良いのだが、おそらくそういうことにはならない。私の個人的なマラドーナ追想譚は、うっかりすると、少なからぬ人々の反発を買う。でなくても、ネット上のメディアで万人が共有できるような心あたたまるエピソードには着地しないだろう。むしろ、炎上するはずだ。大好きな人間に向けた最も率直な言葉は、ネットにぶら下がっているそれぞれに鈍感だったり粗雑だったりする野次馬の心にはどうせ届かない。だとしたら、沼のほとりに立ちのぼる蚊柱に話しかけるみたいな無益な努力は、はじめからせずに済ませるつもりだ。

 なので、マラドーナの話は冒頭で少し触れるだけにとどめる。別の機会にほかの媒体で書くことがあるかもしれないが、どっちにしても時間が必要だ。
 マラドーナのプレーをはじめて見たのがいつだったのかは、忘れてしまった。ただ、ひと目見たその瞬間に心を奪われたことはおぼえている。
 「ああ、この選手は本物の天才だ」
 と、そう確信した。

 実のところ、その当時(まだ20代のはじめだったと思う)、私は、サッカーをろくに知らなかった。プレーヤーの経験がなかったことはもちろん、観戦経験もほぼゼロだった。
 でも、マラドーナが特別なプレーヤーであることは即座に了解した。
 というよりも、その存在の卓抜さをまったくの初心者が一目瞭然で感知できるような存在を天才と呼ぶのだと思う。
 その意味で、マラドーナはまぎれもない天才だった。

 たとえば、セルジオ・ブスケツのプレーの見事さは、観戦経験を重ねて、ある程度サッカーの戦術に精通したファンでないとうまく理解できない。
 ところが、マラドーナは、斜め後ろから頭越しでやってきたパスをピタリと足元におさめるそのトラップのワンプレーだけで、ズブの素人を魅了してしまう。この間の事情は、言葉では説明できない。

 真に卓越した作品や技術は、論理で分析したり言葉で説明したりするまでもなく、それを見た者の心に直接届く。だから、マラドーナのような存在は、説明不要なのだ。むしろ説明すればするほど、語り手の表現力の貧困を際立たせてしまう。なんとなれば、説明のために援用される「論理」はしょせん理性に訴えることしかできない、著しくスピードを欠いたツールだからだ。

 今回は「ウソ」について書く。

 「ウソ」もまた、説明を要さない話題だ。
 ウソはウソであるというそのことだけで、関わったすべての人間を汚染してしまう。それほど危険で致命的な現象だ。

 強い感染力を備えている点で、ウソはウイルスに似ている。
 それゆえ、ウソに対してわれわれが抱いている嫌悪の感覚は、生理的な潔癖に近い。身の安全に関わる根源的な防衛本能が、人々をしてウソを忌避せしめるのである。

 われわれがウソに対して抱く恐怖感は、腐敗した食べ物の臭いや、人間の死体をとらえた映像に感じるそれとほとんど区別がつかない。

 この感情は人間性の根本に属する生存本能からやってくるもので、それゆえに、かえって理屈で説明することが困難だったりする。

 「どうしてウソをついてはいけないの」
 「なぜ人を殺してはいけないのでしょうか」
 という最も本質的な質問には、実は適切な回答が存在しない。

 「ダメだからダメなんだよ」
 「ウソはいけないからいけないのだよ」
 というトートロジー(同語反復)をぶつけておくほかにどうしようもない。