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 スポーツ選手でも歌手でも、あるいはコラムニストでも絵描きでも同じことだが、自分の顔と名前を世間に晒した上で、自分の作品なり技倆なりを売っている人間は、知名度を足がかりに稼いでいることに伴う責任と覚悟を持っていなければならない。

 その責任とは、自分の発言や行動が人々に大きな影響を与えることへのあらかじめの決意であり、覚悟というのは、その影響によってもたらされる結果を引き受ける心構えのことだ。
 であるからして、アイドルであれ作曲家であれ、世間に名前や顔を晒している人間は、自分の言動がもたらす社会的な影響力に無知であってはならない。

 もちろんこれは、
 「発言してはいけない」
 ということではないし
 「発言せねばならない」
 ということでもない。

 具体的な指針としては、
 「自分の発言がどんなふうに波及するのかをよく考えた上で発言すべきだ」
 ということになる。

 その点において、大坂なおみさんは、十分に思慮深かったと思う。
 巨大な知名度を持っている人間が軽率に発言すべきでないことは、たしかにその通りではある。
 しかしながら、その一方で、知名度を持った人間が、自身の知名度に見合った発言を心がけることもまた、大切な覚悟だと思っている。

 どういうことなのかというと、大坂選手のような立場の人間(ワールドクラスの著名なアスリート)は、たとえば、BLMのような運動について、黒人として、女性として、アスリートとして、あるいは複数の民族ならびに複数の国籍、文化を代表する人間として、自分なりの見解を表明することを期待されているということだ。

 当該の問題について、考えがまとまっていないのであれば、沈黙してもかまわない。また、考えがあっても、その考えを堂々と表明することに気後れを感じるのであれば、その場合も黙ることは決して恥ではない。

 ただ、ある程度まとまった考えを持っているのであれば、それを率直に表明することを期待されている立場の者として、発言することは決して「出過ぎたマネ」ではない。
 自分が発言したことの反響を受け止める覚悟ができているのであれば、自身の知名度を活用して広く世界に自分の考えを訴えることは、意義のあることだ。
 そして、知名度の反作用をすすんで引き受けることは、21世紀という情報社会にあっては、著名人に求められる責任のひとつですらある。

 もちろん、テニスの選手は政治の専門家ではないし、社会的な様々な問題についての研究者でもない。大坂なおみ選手とて、テニスが上手であることを除けば、あたりまえな22歳の若い女性に過ぎないのだろう。

 とはいえ、あたりまえな22歳の若い女性であるからという理由で、自由な発言が許されないということはあり得ない。どんな立場のどんな人間であっても、アタマの中にある考えを自分の口で表現する権利は等しく持っている。それは有名人であろうと勤め人であろうと学生であろうと同じことだ。

 とすれば、世界中にいる22歳の等身大の女性の一人として、リキまずに自分の中にある率直な心情を表明する手段を持っている人間が、思っているそのままを表現することは、価値のあることだ。

 ところが、実際には、大坂なおみ選手のような若い女性のアスリートの場合、とりわけその政治的発言が疎まれる背景がある。

 なぜというに、女性アスリートに関しては、スポンサーやファンやスポーツマスコミが総力をあげて、
 「なおみちゃん」
 と呼びかけ得るイメージを着せかけにかかる風潮が、いまだに消えていないからだ。

 「真央ちゃん」「ミキティ」「愛ちゃん」「桃子」「さくら」「聖子」
 と、メディアは、女性アスリートを、同じ教室で学ぶ同級生の女子か、でなければ自分の「娘」みたいな呼び名で呼ぶことを好む。そうすることで、彼女たちの人柄を、実態よりずっと幼いイメージの中に閉じ込めようとするのだ。