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 彼らには、あるいは悪気はないのかもしれない。
 外国人が、外国人として外国人らしく振る舞うことそれ自体を、
 「キモい」
 「異様だ」
 「クサい」
 「エレベーターが臭うのをなんとかしてほしい」
 「なんかジロジロこっち見やがった」
 「ニヤニヤしてやがる」
 「なに?あのデカい帽子みたいなマフラーみたいなの、なにあれ?」
 「なんであの人たちって異様に身振り手振りがデカいんだろうな。あと声も」
 「だよな。バスとかで会うとうるさくて死ぬ」
 てな調子で感じたままに話しているだけなのかもしれない。
 しかし、あなたのその無邪気な雑談が高い確率で差別を含んでいることは、自覚しておいた方が良いと思う。

 タバコの煙のようなあれほどはっきりした匂いですら、ほんの30年前までは「クサい」とは思われていなかった。あまたある「街の匂い」のひとつとして等閑視されていた。
 それが、「クサ」くなったのは、タバコという商品の匂いそのものが激烈化したからではない。
 街が相対的に無臭化したからでもあれば、人々の振る舞い方や体臭が平準化したからでもあり、社会全般が同調の度を高めたからでもある。

 外国人への忌避感は、タバコへの嫌悪と同じく、「被害」として自覚されやすい。
 じっさい、ゼノフォビアは、自分たちと同じようでない人間たちが、自分たちの社会の中で一定の地歩を占めていること自体を、自分たちの共同体への「攻撃」であると見なす人々によって正当化され、組織化される。
 私は、コロナ禍をきっかけに、世界中で人種間の対立や民族間の緊張が高まっていることと、うちの国のような比較的均質性の高い社会で、外国人いびりが表面化しやすくなっていることを、無縁だとは思っていない。同じひとつの出来事の別の側面なのだと思って眺めている。誰によるどのセリフだというふうに特定することは避けるが、この半年ほどの間に、外国人へのいやがらせのコメントやツイートが目立つ傾向にあることはまぎれもない事実だ。
 喫煙者への攻撃と直接に関係のある話ではないが、抑圧を感じている人々が不寛容の度を高める展開は、実にわが国らしい話だと思っている。

 21世紀の社会は、多様化している一方で画一化している部分はおそろしく窮屈になっている。
 私の抱いている感じでは、「多様化」が促進されているのは、商品として提供可能な属性に限られていて、人間の振る舞い方や性質についての決まりごとは誰もが同じように振る舞わないと異端者として排除されるタイプの同調が、どこまでも極端になってきている。

 たとえば、うっかりマスクを忘れてエレベーターに乗り込んでしまった時の人々の視線の険しさを3月の段階と9月の時点で比べてみると、体感として3倍くらいにはなっている。われわれは非マスク者を「加害者」と見なして睨み殺す視線を獲得し終えている。
 社会の要求水準がより上品になるということは、われわれがそれだけ神経質になるということでもある。

 ささいな匂いや騒音や煙に敏感になることは、それだけ社会を清潔に保つために寄与する態度ではあるものの、その一方で、ある集団のメンバーが、ある臨界点を超えて高い同質性を求めると、そこには相互監視の地獄が現出することになるのもまた事実だ。

 思うに、うちの国の新型コロナウイルス対策が現時点でなんとか持ちこたえているのは、政治主導の施策が功を奏しているからではない。最悪の感染爆発を回避し得ているのは、われら一般人にビルトインされている隣組マインドと相互監視根性とムラ社会メンタリティーが社会全体を、がんじがらめのスリーパーホールド状態におさえこんでいるからではないか。

 というわけで、新型コロナウイルスへの警戒感が、無闇矢鱈な異端者排除の発作に至らないように心がけたいものですね、というのが今回の結論です。
 ええ、変な結論ですが。

 めんどうくさいのは、反PC(ポリティカル・コレクトネス)の活動に血道を上げている人たちが、例によって寛容さという言葉の関節を逆に取るタイプの論陣を張ってくることだ。

 「やれPCだの差別だのとわめきちらしては表現規制や行動制限を求めてやまないのはおまえたち人権屋の方じゃないか」
 というお決まりの例のアレだ。

 議論に巻き込まれるのはごめんなので。ひとことだけ
 「うるせえ」
 と言っておく。

(文・イラスト/小田嶋 隆)

延々と続く無責任体制の空気はいつから始まった?

現状肯定の圧力に抗して5年間
「これはおかしい」と、声を上げ続けたコラムの集大成
「ア・ピース・オブ・警句」が書籍化です!


 同じタイプの出来事が酔っぱらいのデジャブみたいに反復してきたこの5年の間に、自分が、五輪と政権に関しての細かいあれこれを、それこそ空気のようにほとんどすべて忘れている。

 私たちはあまりにもよく似た事件の繰り返しに慣らされて、感覚を鈍磨させられてきた。

 それが日本の私たちの、この5年間だった。
 まとめて読んでみて、そのことがはじめてわかる。

 別の言い方をすれば、私たちは、自分たちがいかに狂っていたのかを、その狂気の勤勉な記録者であったこの5年間のオダジマに教えてもらうという、得難い経験を本書から得ることになるわけだ。

 ぜひ、読んで、ご自身の記憶の消えっぷりを確認してみてほしい。(まえがきより)

 人気連載「ア・ピース・オブ・警句」の5年間の集大成、3月16日、満を持して刊行。

 3月20日にはミシマ社さんから『小田嶋隆のコラムの切り口』も刊行されました。