まず、タバコの例から。
近年、明らかな「加害と被害」の文脈で語られるようになっているタバコの話題は、ほんの30年ほど前までは、「嗜好」の問題として片付けられていた。
それどころかタバコのような嗜好品に関して「加害」であるとか「被害」であるといった言葉を使うことは「野暮」な態度として一蹴されていた。
「人間には固有の声や風貌や匂いがある。そして、それらの個性に対しては別の人間がそれぞれの好悪の感情を抱くことになっている。タバコを吸うか吸わないかということも、髪が長いか長くないかと同じく、個人の個性に属する話であることは論をまたない。で、別の個人が、その他人の個性を不快と感じるか好ましく感じるかの感情を抱いたのだとして、それらの感情はそれを抱いている個々人が甘受すべき試練以上のものではない」
てな感じの理屈が主張されていた。
勘違いしてもらっては困るのだが、私はいまここで、喫煙派の昔の理屈を蒸し返して擁護しようとしているのではない。私は2002年に禁煙して以来、20年近くクリーンだし、他人の煙は迷惑だと思っている。
私は現時点での「常識」で、明らかな「加害/被害」と考えられている喫煙にも、「あまたある多様性のうちのひとつ」と考えられていた時代があったという事実をお知らせしているに過ぎない。
「同調」が進むと、「異端」の排除はより苛烈になる。
私が心配しているのはこのポイントだ。
喫煙や暴力や立ち小便について言うなら、その種の悪弊については寛容さよりも峻厳さで対処した方が良いのだろう。
ただ、モノによっては同調と秩序を求める態度が、社会の多様性を殺すケースもあることを自覚しておかなければならない。
たとえば、ゼノフォビア(外国人嫌悪)の問題は、それを声高に主張する側(外国人への嫌悪を喧伝する人々)のペースで進められてはならない。
面倒なようでも、嫌悪をあらわにする人々を説得する方向で話をせねばならない。で、嫌悪の元となっている外国人を排除するのではなくて、彼らが抱いている嫌悪感の方を絶滅させるべく対策を立てないといけない。
外国人との交流に慣れていなかったり、内心に差別感情をあたためたりしている人たちは、外国人の自然な振る舞いを、習慣や文化の違いとして当たり前に受け止めることができない。
だから、人によっては、外国人が外国語を使うことを
「加害」
「迷惑」
「日本文化への冒涜」
として受け止める。
「店員同士がけたたましい韓国語でしゃべってやがってアタマに来た」
「日本語がわからないの一点張りで、話にもなんにもなりゃしないから勘弁しておっぱなしてやった」
という感じの武勇伝を開陳されて困惑したことが、私にも何度かある。
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