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 教室内の暴力は、一部の暴力教師に限った話でもなかった。
 ふだんは温厚な教師が、年に一度くらいのペースで生徒に手を上げることもよくある話だったし、生徒間の暴力も、私の知る限りでは、現在よりもずっと頻繁に勃発していた。
 で、何が言いたいのかというと、学校に暴力が蔓延していた時代は、暴力そのものがさして意識されなかったということだ。暴力は、環境の一部だった。教室にある机や椅子と同じような背景のひとつとして受け止められていた。

 ここにも喫煙とその被害の間にある逆説とよく似た逆説が介在している。
 多くの教師が多くの生徒を殴っていた時代、殴られた側の生徒が被害を意識することは少なかったし、殴る側の教師が自分の加害を自覚する度合いもずっと低かった。
 であるからして、殴られたことを問題視して教育委員会に訴える生徒もほとんど現れなかったし、生徒を殴った教師が職を失うようなこともなかった。
 ところが、学校から暴力が追放されて、生徒を殴る教師がほぼ根絶されてみると、教師による暴力は、新聞記事として掲載されるレベルのスキャンダルと見なされるようになった。そして、殴られた生徒の側も、教師による殴打をきっかけに不登校に陥るほどのショックを受けるようになった。
 もちろん、これは良い方向の変化の結果だ。

 私は、喫煙だの暴力だのについて、昔の方が良かったと言うつもりはない。路上の立ち小便についても同様だ。ああいうことが当たり前だった時代に戻ったところで良い変化はひとつも起こらない。
 では、どうして私が
 「路上喫煙もカジュアルな暴力も立ち小便も、昔は、たいした問題じゃなかったのだよ」
 てなことをわざわざ文章として書き起こしているのかというと、年寄りの読者の共感を獲得しようとしているからではない。
 私はむしろ、若い人たちに向けて、
 「君たちが当たり前だと思っている君たちの社会の前提は、ほんの数十年前まではわりと軽んじられていたのだよ」
 ということを知ってほしいと思って今回の原稿を書いている。

 もうひとつ、「多様性」と「加害」と「差別」と「同調」の間に、必ずしも豁然とした線が引けるわけではないということを訴えたい気持ちもある。
 ん? わからない?
 たしかに、これまでの話から、多様性と加害と差別と同調が互いに侵食し合っているという話を読み取るのは簡単ではない。
 しかも、この先はさらにわかりにくい話になる。
 でも、なんとか書き起こしてみることにする。
 わかってくれる人が3割しかいなくても、書いておく価値はある。
 というよりも、私のような先の長くない書き手は、3割の読者にしか届かない原稿をこそ、ぜひ書き残しておくべきなのである。
 理由は述べない。自分で考えてくれ。