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 あらためてタバコの被害に思い至ったのは、帰宅して着替えながら、自分の着ているシャツにタバコの匂いが染み付いていることに気づいた時だ。
 「ああ、このシャツは早速クリーニングに出さないとダメだな」
 と思うと、腹が立った。というのも、そのシャツは、ちょっと前に倒産が伝えられたレナウンのブランドのもので、個人的なお気に入りのひとつだったからだ。で、自分が感情を害していることへの意外さとうしろめたさから、あれこれ考え始めたのが、今回の執筆のきっかけになったわけだ。

 タバコの周辺にはいくつかの困った逆説がある。
 そのうちのひとつは、喫煙の被害が減れば減るほど、その迷惑さが顕著になっていることだ。
 私はいま、あえてわかりにくい書き方をしている。
 というのも、これは、直感的に飲み込みにくい話で、喫煙者、非喫煙者双方にとって、理不尽な展開でもあるからだ。

 街なかにタバコの煙が蔓延していた昭和の時代、喫煙は「嗜好」であって「迷惑」ではないと考えられていた。いや、非喫煙者の側は「迷惑」に感じていたかもしれないのだが、彼らとて「被害」とまでは断じていなかった。
 喫煙者の側は、ほとんどまったく自分たちの喫煙が「加害」であることは自覚していなかった。「マナー違反」とすらほぼ考えなかった。
 ところが、路上や駅頭から喫煙者の姿が消えて、喫煙できる公共スペースが限られるにつれて、タバコの煙は、悪目立ちするようになった。
 そして、これもまた皮肉ななりゆきなのだが、タバコによる被害が減れば減るほど「加害者」はより特定されやすくなった。

 不特定多数の喫煙者(つまり「加害者」ですね)が、あらゆる場所に遍在していた時代は、誰も自分のシャツをクサくした人間を特定することができなかった。それどころか、自分の立ち回り先のあまねく場所にタバコの煙が常にたちこめていたあの時代には、その匂いを「クサい」と感じる感覚自体が育っていなかった。というのも、世界はタバコの匂いで満たされているのがデフォルト設定で、それ以外の世界を思い浮かべることのできる人間は、まだ生まれていなかったからだ。

 ところが、街路からタバコが追放されて、喫煙者が札付きの異端者と見なされる世界が到来してみると、タバコの匂いは、明らかな異臭として意識されるようになる。ついでのことに、自分のシャツにタバコの匂いをつけた「犯人」も容易に特定可能になった。

 「この不快な匂いは、あの時のあの打ち合わせの席で、やおらタバコを取り出して火をつけていたあのおっさんが吐き出していたあの煙が原因だな」
 と、現実問題としてタバコの「被害」が、20世紀の喫煙最盛期に比べれば、十分の一以下に激減しているにもかかわらず、被害感情はむしろ増している。もちろん、特定の喫煙者への憎悪も同じように増量している。

 これは、タバコに限った話ではない。
 マナーにかかわる話はどれもプロットをたどることになっている。逸脱者が減少すればするだけ、彼らはより強く断罪されるようになるのである。
 たとえば、教師による生徒への暴力は、私が子供だった昭和40年代にはさほど珍しいエピソードではなかった。
 どの学校にも札付きの暴力教師が一人や二人はいて、その彼らは、日常的に生徒を叩くことを自らの信念において敢行していた。
 私自身、中学校の3年間を通じて100を超える数の殴打を浴びている。