先日、ある場所で開かれた会合で久しぶりにタバコの煙にさらされた。
タバコの煙を身に浴びた程度のことをいまだに覚えているのは、過剰反応であったと、わがことながら反省している。
コロナ禍の影響は多方面に及んでいる。私たちが「他人」から受けるささいな「迷惑」を容認できなくなっていることもそのうちのひとつだと思う。
じっさい、私はコロナ禍以来、タバコの煙に敏感になっている。
ソーシャルディスタンスに慣れたわれらコロナ下の日本人は、「他者」への違和感をエスカレートさせるステージに突入している。であるからして、おそらく、アンダー・コロナのゆとりある通勤電車に慣れたビジネスパースンの中には、仮に新型コロナウイルスが収束したのだとして、あの満員電車の距離感に戻れなくなる人々が一定数現れるはずだ。
私自身の話をすれば、私はすでに30年以上前から、朝夕のラッシュの時間帯の電車には乗れない。そういうカラダになってしまっている。
もっとも、自分が満員電車に乗れない体質である旨を明言する態度は、それはそれで高飛車な特権顕示(あるいは最近の言い方で言えば「マウンティング」)であるのかもしれない。
じっさい、親しい間柄の人間は、
「おまえはナニサマなんだ?」
という率直なリアクションを返してくる。
「忠告しとくけど、満員電車が苦手だとか、ふつうの勤め人の前では言わない方がいいぞ」
「なんで?」
「毎日満員電車に乗って出勤しているあなたがた庶民は奴隷か何かなんですか、と言ってるみたいに聞こえるからだよ」
「奴隷じゃないのか?」
「オレはいま面白い冗談として聞いてやってるけど、とにかく一般人の前ではそういうまぜっ返しは禁物だぞ」
なるほど。
「満員電車に乗れないとか、このオッサンは何様のつもりなんだろうか」
と思って私の話を聴いてくれていた若い人たちには、あらためてこの場を借りて謝罪しておく。私は「オレ様」だったのかもしれない。
ともあれ、このたびのコロナ生活を通じて、身近な他者と容易に打ち解けない「オレ様」の数は、確実に増加しつつある。それが良いことなのか悪いことなのかは、一概には言えない。ただ、一人ひとりの日本人が個人としての独立自尊の境地に到達するためには、他者をうとましく感じる段階が必要ではあるはずで、その意味からすると、満員電車に乗ることのできないオレ様な日本人が増えることは、わが国が国際社会のマトモなメンバーになるためには、通過せねばならない一過程なのではあるまいか。
タバコの話に戻る。
煙を浴びた当日、打ち合わせをしている室内にタバコの煙が漂っていることを、私がリアルタイムで不快に感じていたのかというと、それほどまでのことはなかった。
「この部屋にはタバコを吸う人が二人いるのだな」
と、そう思っただけだ。
あらためてタバコの被害に思い至ったのは、帰宅して着替えながら、自分の着ているシャツにタバコの匂いが染み付いていることに気づいた時だ。
「ああ、このシャツは早速クリーニングに出さないとダメだな」
と思うと、腹が立った。というのも、そのシャツは、ちょっと前に倒産が伝えられたレナウンのブランドのもので、個人的なお気に入りのひとつだったからだ。で、自分が感情を害していることへの意外さとうしろめたさから、あれこれ考え始めたのが、今回の執筆のきっかけになったわけだ。
タバコの周辺にはいくつかの困った逆説がある。
そのうちのひとつは、喫煙の被害が減れば減るほど、その迷惑さが顕著になっていることだ。
私はいま、あえてわかりにくい書き方をしている。
というのも、これは、直感的に飲み込みにくい話で、喫煙者、非喫煙者双方にとって、理不尽な展開でもあるからだ。
街なかにタバコの煙が蔓延していた昭和の時代、喫煙は「嗜好」であって「迷惑」ではないと考えられていた。いや、非喫煙者の側は「迷惑」に感じていたかもしれないのだが、彼らとて「被害」とまでは断じていなかった。
喫煙者の側は、ほとんどまったく自分たちの喫煙が「加害」であることは自覚していなかった。「マナー違反」とすらほぼ考えなかった。
ところが、路上や駅頭から喫煙者の姿が消えて、喫煙できる公共スペースが限られるにつれて、タバコの煙は、悪目立ちするようになった。
そして、これもまた皮肉ななりゆきなのだが、タバコによる被害が減れば減るほど「加害者」はより特定されやすくなった。
不特定多数の喫煙者(つまり「加害者」ですね)が、あらゆる場所に遍在していた時代は、誰も自分のシャツをクサくした人間を特定することができなかった。それどころか、自分の立ち回り先のあまねく場所にタバコの煙が常にたちこめていたあの時代には、その匂いを「クサい」と感じる感覚自体が育っていなかった。というのも、世界はタバコの匂いで満たされているのがデフォルト設定で、それ以外の世界を思い浮かべることのできる人間は、まだ生まれていなかったからだ。
ところが、街路からタバコが追放されて、喫煙者が札付きの異端者と見なされる世界が到来してみると、タバコの匂いは、明らかな異臭として意識されるようになる。ついでのことに、自分のシャツにタバコの匂いをつけた「犯人」も容易に特定可能になった。
「この不快な匂いは、あの時のあの打ち合わせの席で、やおらタバコを取り出して火をつけていたあのおっさんが吐き出していたあの煙が原因だな」
と、現実問題としてタバコの「被害」が、20世紀の喫煙最盛期に比べれば、十分の一以下に激減しているにもかかわらず、被害感情はむしろ増している。もちろん、特定の喫煙者への憎悪も同じように増量している。
これは、タバコに限った話ではない。
マナーにかかわる話はどれもプロットをたどることになっている。逸脱者が減少すればするだけ、彼らはより強く断罪されるようになるのである。
たとえば、教師による生徒への暴力は、私が子供だった昭和40年代にはさほど珍しいエピソードではなかった。
どの学校にも札付きの暴力教師が一人や二人はいて、その彼らは、日常的に生徒を叩くことを自らの信念において敢行していた。
私自身、中学校の3年間を通じて100を超える数の殴打を浴びている。
教室内の暴力は、一部の暴力教師に限った話でもなかった。
ふだんは温厚な教師が、年に一度くらいのペースで生徒に手を上げることもよくある話だったし、生徒間の暴力も、私の知る限りでは、現在よりもずっと頻繁に勃発していた。
で、何が言いたいのかというと、学校に暴力が蔓延していた時代は、暴力そのものがさして意識されなかったということだ。暴力は、環境の一部だった。教室にある机や椅子と同じような背景のひとつとして受け止められていた。
ここにも喫煙とその被害の間にある逆説とよく似た逆説が介在している。
多くの教師が多くの生徒を殴っていた時代、殴られた側の生徒が被害を意識することは少なかったし、殴る側の教師が自分の加害を自覚する度合いもずっと低かった。
であるからして、殴られたことを問題視して教育委員会に訴える生徒もほとんど現れなかったし、生徒を殴った教師が職を失うようなこともなかった。
ところが、学校から暴力が追放されて、生徒を殴る教師がほぼ根絶されてみると、教師による暴力は、新聞記事として掲載されるレベルのスキャンダルと見なされるようになった。そして、殴られた生徒の側も、教師による殴打をきっかけに不登校に陥るほどのショックを受けるようになった。
もちろん、これは良い方向の変化の結果だ。
私は、喫煙だの暴力だのについて、昔の方が良かったと言うつもりはない。路上の立ち小便についても同様だ。ああいうことが当たり前だった時代に戻ったところで良い変化はひとつも起こらない。
では、どうして私が
「路上喫煙もカジュアルな暴力も立ち小便も、昔は、たいした問題じゃなかったのだよ」
てなことをわざわざ文章として書き起こしているのかというと、年寄りの読者の共感を獲得しようとしているからではない。
私はむしろ、若い人たちに向けて、
「君たちが当たり前だと思っている君たちの社会の前提は、ほんの数十年前まではわりと軽んじられていたのだよ」
ということを知ってほしいと思って今回の原稿を書いている。
もうひとつ、「多様性」と「加害」と「差別」と「同調」の間に、必ずしも豁然とした線が引けるわけではないということを訴えたい気持ちもある。
ん? わからない?
たしかに、これまでの話から、多様性と加害と差別と同調が互いに侵食し合っているという話を読み取るのは簡単ではない。
しかも、この先はさらにわかりにくい話になる。
でも、なんとか書き起こしてみることにする。
わかってくれる人が3割しかいなくても、書いておく価値はある。
というよりも、私のような先の長くない書き手は、3割の読者にしか届かない原稿をこそ、ぜひ書き残しておくべきなのである。
理由は述べない。自分で考えてくれ。
まず、タバコの例から。
近年、明らかな「加害と被害」の文脈で語られるようになっているタバコの話題は、ほんの30年ほど前までは、「嗜好」の問題として片付けられていた。
それどころかタバコのような嗜好品に関して「加害」であるとか「被害」であるといった言葉を使うことは「野暮」な態度として一蹴されていた。
「人間には固有の声や風貌や匂いがある。そして、それらの個性に対しては別の人間がそれぞれの好悪の感情を抱くことになっている。タバコを吸うか吸わないかということも、髪が長いか長くないかと同じく、個人の個性に属する話であることは論をまたない。で、別の個人が、その他人の個性を不快と感じるか好ましく感じるかの感情を抱いたのだとして、それらの感情はそれを抱いている個々人が甘受すべき試練以上のものではない」
てな感じの理屈が主張されていた。
勘違いしてもらっては困るのだが、私はいまここで、喫煙派の昔の理屈を蒸し返して擁護しようとしているのではない。私は2002年に禁煙して以来、20年近くクリーンだし、他人の煙は迷惑だと思っている。
私は現時点での「常識」で、明らかな「加害/被害」と考えられている喫煙にも、「あまたある多様性のうちのひとつ」と考えられていた時代があったという事実をお知らせしているに過ぎない。
「同調」が進むと、「異端」の排除はより苛烈になる。
私が心配しているのはこのポイントだ。
喫煙や暴力や立ち小便について言うなら、その種の悪弊については寛容さよりも峻厳さで対処した方が良いのだろう。
ただ、モノによっては同調と秩序を求める態度が、社会の多様性を殺すケースもあることを自覚しておかなければならない。
たとえば、ゼノフォビア(外国人嫌悪)の問題は、それを声高に主張する側(外国人への嫌悪を喧伝する人々)のペースで進められてはならない。
面倒なようでも、嫌悪をあらわにする人々を説得する方向で話をせねばならない。で、嫌悪の元となっている外国人を排除するのではなくて、彼らが抱いている嫌悪感の方を絶滅させるべく対策を立てないといけない。
外国人との交流に慣れていなかったり、内心に差別感情をあたためたりしている人たちは、外国人の自然な振る舞いを、習慣や文化の違いとして当たり前に受け止めることができない。
だから、人によっては、外国人が外国語を使うことを
「加害」
「迷惑」
「日本文化への冒涜」
として受け止める。
「店員同士がけたたましい韓国語でしゃべってやがってアタマに来た」
「日本語がわからないの一点張りで、話にもなんにもなりゃしないから勘弁しておっぱなしてやった」
という感じの武勇伝を開陳されて困惑したことが、私にも何度かある。
彼らには、あるいは悪気はないのかもしれない。
外国人が、外国人として外国人らしく振る舞うことそれ自体を、
「キモい」
「異様だ」
「クサい」
「エレベーターが臭うのをなんとかしてほしい」
「なんかジロジロこっち見やがった」
「ニヤニヤしてやがる」
「なに?あのデカい帽子みたいなマフラーみたいなの、なにあれ?」
「なんであの人たちって異様に身振り手振りがデカいんだろうな。あと声も」
「だよな。バスとかで会うとうるさくて死ぬ」
てな調子で感じたままに話しているだけなのかもしれない。
しかし、あなたのその無邪気な雑談が高い確率で差別を含んでいることは、自覚しておいた方が良いと思う。
タバコの煙のようなあれほどはっきりした匂いですら、ほんの30年前までは「クサい」とは思われていなかった。あまたある「街の匂い」のひとつとして等閑視されていた。
それが、「クサ」くなったのは、タバコという商品の匂いそのものが激烈化したからではない。
街が相対的に無臭化したからでもあれば、人々の振る舞い方や体臭が平準化したからでもあり、社会全般が同調の度を高めたからでもある。
外国人への忌避感は、タバコへの嫌悪と同じく、「被害」として自覚されやすい。
じっさい、ゼノフォビアは、自分たちと同じようでない人間たちが、自分たちの社会の中で一定の地歩を占めていること自体を、自分たちの共同体への「攻撃」であると見なす人々によって正当化され、組織化される。
私は、コロナ禍をきっかけに、世界中で人種間の対立や民族間の緊張が高まっていることと、うちの国のような比較的均質性の高い社会で、外国人いびりが表面化しやすくなっていることを、無縁だとは思っていない。同じひとつの出来事の別の側面なのだと思って眺めている。誰によるどのセリフだというふうに特定することは避けるが、この半年ほどの間に、外国人へのいやがらせのコメントやツイートが目立つ傾向にあることはまぎれもない事実だ。
喫煙者への攻撃と直接に関係のある話ではないが、抑圧を感じている人々が不寛容の度を高める展開は、実にわが国らしい話だと思っている。
21世紀の社会は、多様化している一方で画一化している部分はおそろしく窮屈になっている。
私の抱いている感じでは、「多様化」が促進されているのは、商品として提供可能な属性に限られていて、人間の振る舞い方や性質についての決まりごとは誰もが同じように振る舞わないと異端者として排除されるタイプの同調が、どこまでも極端になってきている。
たとえば、うっかりマスクを忘れてエレベーターに乗り込んでしまった時の人々の視線の険しさを3月の段階と9月の時点で比べてみると、体感として3倍くらいにはなっている。われわれは非マスク者を「加害者」と見なして睨み殺す視線を獲得し終えている。
社会の要求水準がより上品になるということは、われわれがそれだけ神経質になるということでもある。
ささいな匂いや騒音や煙に敏感になることは、それだけ社会を清潔に保つために寄与する態度ではあるものの、その一方で、ある集団のメンバーが、ある臨界点を超えて高い同質性を求めると、そこには相互監視の地獄が現出することになるのもまた事実だ。
思うに、うちの国の新型コロナウイルス対策が現時点でなんとか持ちこたえているのは、政治主導の施策が功を奏しているからではない。最悪の感染爆発を回避し得ているのは、われら一般人にビルトインされている隣組マインドと相互監視根性とムラ社会メンタリティーが社会全体を、がんじがらめのスリーパーホールド状態におさえこんでいるからではないか。
というわけで、新型コロナウイルスへの警戒感が、無闇矢鱈な異端者排除の発作に至らないように心がけたいものですね、というのが今回の結論です。
ええ、変な結論ですが。
めんどうくさいのは、反PC(ポリティカル・コレクトネス)の活動に血道を上げている人たちが、例によって寛容さという言葉の関節を逆に取るタイプの論陣を張ってくることだ。
「やれPCだの差別だのとわめきちらしては表現規制や行動制限を求めてやまないのはおまえたち人権屋の方じゃないか」
というお決まりの例のアレだ。
議論に巻き込まれるのはごめんなので。ひとことだけ
「うるせえ」
と言っておく。
(文・イラスト/小田嶋 隆)
延々と続く無責任体制の空気はいつから始まった?
現状肯定の圧力に抗して5年間
「これはおかしい」と、声を上げ続けたコラムの集大成
「ア・ピース・オブ・警句」が書籍化です!
同じタイプの出来事が酔っぱらいのデジャブみたいに反復してきたこの5年の間に、自分が、五輪と政権に関しての細かいあれこれを、それこそ空気のようにほとんどすべて忘れている。
私たちはあまりにもよく似た事件の繰り返しに慣らされて、感覚を鈍磨させられてきた。
それが日本の私たちの、この5年間だった。
まとめて読んでみて、そのことがはじめてわかる。
別の言い方をすれば、私たちは、自分たちがいかに狂っていたのかを、その狂気の勤勉な記録者であったこの5年間のオダジマに教えてもらうという、得難い経験を本書から得ることになるわけだ。
ぜひ、読んで、ご自身の記憶の消えっぷりを確認してみてほしい。(まえがきより)
人気連載「ア・ピース・オブ・警句」の5年間の集大成、3月16日、満を持して刊行。
3月20日にはミシマ社さんから『小田嶋隆のコラムの切り口』も刊行されました。
この記事はシリーズ「小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 ~世間に転がる意味不明」に収容されています。WATCHすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。
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