Go Toについて書いておきたい。
7月16日午後6時の執筆時点では、東京を対象外とする方針が固められたようだ。
とすれば、Go Toトラベルキャンペーンが、国の施策として動きはじめようとしているいまのうちに、その決定の経緯と現時点での反響を記録しておく必要がある。このタイミングを逃すと
「お国が引っ込めた施策について、いつまでもグダグダと言いがかりをつけるのは、あまりにも党派的な思惑にとらわれたやりざまなのではないか」
「世論の動向にいち早く反応して、一旦は動き出した政策を素早く見直す決断を下した安倍政権の機敏さを評価しようともせずに、死んだ犬の疱瘡の痕を数えるみたいな調子で撤回済みのプランを蒸し返してあげつらっているパヨク人士の叫び声が必死すぎて草」
てな調子で、検証作業そのものが、要らぬ非難を招くことになる。
でなくても、いったいに、現政権は、検証ということをしない。
彼らは、森友案件を踏み消して以来、自分たちの失策や見込み違いを
「過ぎたこと」
「終わった話」
として下水に流し去る自分たちの処理手法に自信を抱いている。
どんなにひどい不祥事や不品行があっても、とにかく知らん顔をして時間が経過するのを待っていれば、じきに国民は忘れてしまう、と、そうタカをくくっているのだろう。で、実際、われら善良なる国民は、次から次へとやってくる新しい話題に、順次目を奪われ、毎度気をとられながら、順調に古い話を忘れては、今朝もまたまっさらになった新鮮なアタマで、ワイドショーの画面に出てくる眠そうな落語家の顔を眺めている。
いまとなっては、「桜を見る会」の話題すら持ち出しにくい。
「ああ、桜ね。もう古いんだよなあ」
と、政治部の記者さんたちにしてからが、ファッション誌のフロントページ企画担当みたいな口調で、古い記事をネグレクトしにかかっている。
「だって、数字獲れないでしょ? 桜じゃ」
と。
了解。きみたちの魂胆はよくわかった。せめてページビューを稼げるうちに話題にしておこう、と、そんなわけなので、今回は全力をあげてGo Toをほじくり返しに行く所存だ。
不思議なのは、国交省が素案を持ち出すや、各方面から異論が噴出して止まなかった、このどうにもスジの悪い田舎クーポン作戦を、政権中枢の人々が、これまでどうして延期することができなかったのかだ。
全国の新型コロナウイルス感染者数が再び増加に転じたかに見えるこの二週間ほどの世間の空気を感じていれば、少なくとも実施時期をひと月かそこいら後ろにズラすのは、そんなに素っ頓狂な決断ではない。
というよりも、すんなり延期なり中止なりを発表していれば、ほとんどすべての国民は、政府の英断を歓迎していたはずだ。こんなことは、私のようなド素人が言うまでもなく、さまざまな分野の専門家や有識者の皆さんが、ずっと以前から、口を酸っぱくして繰り返していたお話だ。
「キャンペーンそのものの当否はともかく、いまやることじゃありませんね」
「百歩譲って、旅行業者の窮状を救う必要があるのだとしても、こんなまわりくどい方法を採用する意味がわからない」
「ただでさえ給付金業務の事務委託費を電通に丸投げにしている件が炎上しているさなかで、同じように痛くない腹をさぐられかねない膨大な事務費のかかるキャンペーンを強行する意図は那辺にあるのか」
「ものには優先順位がある。医療崩壊の危機に瀕している医療・保健行政の現場や、先日来の水害で今日住む場所にさえ困窮している被災地を差し置いて、旅行業者の救済を優先する政府の姿勢には、強い利権の影響を感じる」
「そもそも、第二波の到来が強く疑われる状況下で、国民に旅行を促す姿勢自体が不見識だし、感染予防の観点からも到底承服しかねる」
「全国旅行業協会(ANTA)の会長の座にある人間が、自民党幹事長の二階俊博氏であることは、誰もが知っている事実だ。とすれば、このGo Toトラベルなる観光支援施策自体が、ためにする利益誘導と思われても仕方がないわけで、李下に冠を正さずという観点からも、いまこの時にこんなスジの悪い政策を強行する必然性は皆無ではないのか」
と、代表的な反対意見を並べてみただけでも、このキャンペーンの悪評ふんぷんぶりは明らかだ。事実、私自身、Go Toトラベルのキャンペーンに積極的に賛成している人間を一人も見たことがない。
賛成意見も
「いまさら中止できない」
「どっちみち感染拡大が止められないのなら、せめて経済を回しながら感染拡大と対峙する方が現実的なのではないか」
「コロナで亡くなるのはご老人だけで、してみると、若干のタイムラグが出るだけで、この数年をトータルした死亡者数ということなら結局は同じことなのだから、どんどん経済を回す方が良い」
といった感じのヤケッパチなご意見に限られている。
なお、最後にご紹介した意見は、「癌患者専門の在宅緩和ケア医」を名乗るアカウントがツイッター上に発信していたものだ。
念のためにより詳しく書かれたバージョンをご紹介すると
《スウェーデン方式だと亡くなりそうな高齢者が予定より数年早く亡くなる。自粛方式だと、亡くなりそうな高齢者を自粛期間の分だけ、延命出来る。キャリーオーバー作戦。数年たてば、総死亡者数はどちらも変わらない。経済損失は雲泥の差になる。高齢者の皆さん、死にそうな人が亡くなるだけですよ。》
という文言になる。
特定個人の発言をあげつらうことは、当稿の趣旨にそぐわない。なので投稿主を特定できる形でツイートをまるごと引用することはせずにおく。
とはいえ、医師を名乗るアカウント(←真偽はともかくとして)が、この時期に、こういう見解を拡散していることを、軽視して良いとは思っていない。
「数年たてば、総死亡者数は変わらない」
というこの論法は、「医療」という営為を、かなり根本的な次元で否定し去っていると申し上げなければならない。
「数年」を「数十年」に変えれば、
「数十年たてば、医者にかかろうがかかるまいが、総死亡者数は変わらない」
という話になる。
とすると、医療は、延命のためにかかるコストと、コストに見合う延命効果を両睨みにした、コスト&ベネフィットを勘案すべき事案に還元される。
注目せねばならないのは、このアカウントが「亡くなりそうな高齢者を自粛期間の分だけ延命する」ことの価値を、自粛によって生じる「経済的損失」よりも低く見ている点だ。
つまり、この人物にとって、「価値の低い生命の延命」は、「経済的な利益の最大化」よりも、優先順位として低いわけだ。
でなくても、このお話は、個々の生命に価値の優劣を設定して、その優劣に値札を付けないと、医療現場における「有意義な延命」と「無価値な延命」を区別できない、というお話に発展せざるを得ない。
さらにおそろしいのは、最後に添えられた
「死にそうな人が亡くなるだけですよ」
という一見クールに(あるいは専門家っぽく)聞こえる断言が、命の選別を前提としている点だ。
この人は、人間を「死にそうな人」と「死にそうでない人」に分類したうえで、前者の命は救うに値しないということを暗に述べている。
しかも、そういう冷徹な判断ができるオレって素敵(たぶん)と考えている。医者の中二病は、まことに度し難い。
この思想は、優生思想のど真ん中ともいうべき考え方で、この考えの持ち主は、結局のところ人間の生命を「生産に寄与する生命」と「生産に寄与しない生命」に分類して、前者の延命に医療資源の投入を集中することによって、より効率的な社会が実現すると信じていたりする。
私自身、高齢でもあれば基礎疾患を複数かかえている患者でもある。
仮に、私が、自分の生命の価値をこの医師の判定に委ねたのであれば
「10年に満たない余命を、高額な医療費の継続的な投入を前提に延命させるべきであるのかを問われるのであれば、ここは、不要と判断せざるを得ない」
てな調子のお墨付きを頂戴することになるはずだ。その自信はある。
せっかくなので、5月に発信したツイートを紹介しておく。
《医師を名乗るアカウントの中に、わりと無視できない確率で、明らかなレイシストや、優生思想を留保なく肯定する人間が含まれているのは、しみじみと恐ろしいことだと思っています。2020年5月29日午後11時45分》
「医」という文字でアカウント検索をして、ひととおり見回してもらえば、ご理解いただけると思う。どっちにしても、医師を名乗るアカウントの言葉をうっかり鵜呑みにするのは得策でないケースが多い。私はそう思っている。
安倍首相は、14日、官邸に集まった記者団に向けて
《−略− 現下の感染状況を高い緊張感を持って注視している》
点を強調したうえで、あわせて
《単なる観光需要回復対策ではなく、『ウィズコロナ』における安全で安心な新しい旅のスタイルを普及定着させることも重要な目的だ》
という旨の言葉を述べている。
私は、この首相の言葉の空疎さ(←「くうそ」は、「くそ」と「うそ」から出来ているのだそうですね)にちょっと驚いた。
なんというのか、成績の良くない学生が持ち出してくる卒論の仮テーマのようでもあれば、広告代理店の新米が市の観光課に持ち込んだ町おこしキャンペーンのラフ案みたいでもある。
現政権発足以来の変わらぬ特徴は、持ち出してくる施策やスローガンのいちいちが、どうにも広告屋のプレゼンくさい点にある。それも、有能な広告マンによる秀逸な広告文案ではなくて、代理店ワナビーの大学生が仲間うちの宴会で得意になって振り回している感じの、恥ずかしくも不思議大好きなバブル臭横溢の安ピカ自足コピー塾だったりする。
「人生再設計」
「一億総活躍」
「人づくり革命」
「働き方改革」
「みんなにチャンス!構想」
「3年間抱っこし放題」
と来て、その先に
「Go Toトラベルキャンペーン」
がある。
そう思ってみると、Go Toの行き先はまるで見えない。
誰かが、「広告代理店内閣」ということを言っていた。
私は、その見解に賛同する。
ほかの誰かは「ヤンキー内閣」、「ヤンキー政権」と言っている。
そのご意見にも全面的に同意する。
彼らは、仲間うちで威勢の良いことを言い合ってはデカい声で笑ってばかりいるバーベキューのメンバーみたいな人たちに見える。
隊員は焼きはじめた食材を焦げるまで裏返せない。
アベノマスクにしても、引き返すタイミングは、少なくとも3回はあったはずなのに、結局強行してしまった。
で、ごらんの通りの赤っ恥を晒している。
今回のGo Toも同様だ。
たしかに、最初からバカなプランではあった。
でも、途中で見直すなり延期するなり修正してれば、これほどまでにバカなインパール事案にはなっていない。
進軍前に撤退したのであれば、大手柄だったと言ってさしあげても良い。
政府でも企業でも広告代理店でも、ラフ案の段階でダメなプランが出てくることはよくある話だ。私のような原稿書きにしたところで、いきなりの第一稿は読めたものじゃなかったりする。
ただ、仕事は、少しずつ改善しながら進められるものだ。別の言い方をするなら、改善の過程こそが仕事というものの本体なのである。
ラフ案を叩いてマトモなキャッチコピーに仕上げて行く過程は、官僚の仕事でも政治家の仕事でもそんなに変わらない。
間違っていたら直せば良いのだし、的外れだったら撤回すれば良い。
それだけの話だ。
しかし、現政権のメンバーは、なぜなのか、それができない。
走り出したがさいご、止まることができない。
なぜか。
以下、私の個人的な見解に過ぎないことをお断りしたうえで、その原因として思い当たるところを申し上げる。
安倍内閣の人たちが、バカな第一案を改めることができず、愚かな施策を途中で撤回できず、みっともない発言を修正できないのは、つまるところ、彼らがマッチョだからだ。さよう。謝ったり引き返したり軌道修正したり白紙撤回したりテヘペロしたりすることは、男としてできないのだね。なぜかって? 男として半端だからだよ。
ちょっと前に、ツイッターのタイムライン上で、
「新自由主義とネポティズム(縁故主義)は、本来は正反対の理念であるはずなのだが、その実、なぜなのかわりと相性が良い。その証拠に維新と現政権は微妙にツルんでいるではないか」
という感じの話の流れで、「ガキ」「任侠」「マッチョ」「ホモソーシャル」「サル山独裁」「反知性主義」あたりの単語が話題にのぼったことがある。
この時、
《ガキは基本的に任侠が大好きです。ジャン・ジュネは「泥棒日記」の中で「やくざは要するに子供なのだ」と言っています。飯干晃一も「やくざは男の理念形だ」と喝破しています。つまりヤー公というのは小学4年生段階の仲間とツルんでる時代から成長しない男たちの由なのですね。
2020年7月11日午後5時32分》
《小学生男子の集団は、非力な子供だから無害なだけで集団力学的にはモロなやくざ組織です。もっとも、ほどんどのガキは地域から離れて、いずれ孤独な男として成熟します。例外はジモティーの人間関係から外に出られないヤンキー連中で、彼らは成熟しません。で、やくざか、でなければJCになります。2020年7月11日午後5時42分》
という2つのツイートを発信したところ、早速
「幼少期に壮絶なイジメ体験でもあるの?」
「小田嶋っていじめられっこだったんだろうなぁw」
というリプライが寄せられた。
ごらんの通り、ネット社会では、伝統的に「いじめ被害体験」が「恥辱」「黒歴史」として、「人に言えない恥ずかしい過去」に分類されている一方で、「いじめ加害体験」は「スクールカースト上位者であったことの証」「仲間の多い魅力的な子供であったことの証明」として、もっぱら「武勇伝」「自慢話」の文脈で語られることになっている。
唐突に聞こえるかもしれないが、私は、現政権のメンバーが、いずれも、謝罪・軌道修正・戦術的撤退のできない、極めて硬直的な人物に限られていることの理由は、現政権が、つまるところ、スクールカーストの延長上に形成されたヤンキー集団だからなのだと考えている。
ホモソーシャルのサル山で暮らすマッチョが、なにより避けたいと願っているのは、自分の体面が失われる場面だ。
彼らは、誰かにアタマを下げたり、自分の非を認めたり、前言を撤回したり、方針を変更したりすることを、自分の男としての体面を台無しにする、最悪の事態と考えている。
であるから、間違っていても、足元に穴が開いていても、不利益をこうむることになっても、簡単には非を認めないし、謝ろうともしない。
これも唐突な話に聞こえるかもしれないが、私は、たとえば、閣議のメンバーに女性が半数いれば、おそらくこういうことにはならないと思っている。
たとえ、閣議に招集される女性閣僚のメンバーが自民党の「オンナのオッサン」みたいな女性議員ばかりであっても、女性が半分混じっている会議は、男ばかりの会議とはまるで違う展開をする。そういうことになっている。だから
「そうですね。たしかにGo Toをいま強行するのは無茶かもしれない」
「じゃあ、とりあえず一カ月延期することにして、その間に細部をもう少し考え直して再出発しましょう」
と、なんということもなく延期の決断ができたと思う。
男だけの集団では、その簡単な決断ができない。
「オレの顔をツブすのか?」
「いや、そんなことでは……」
「でも、延期なんてことになったら、各方面に謝罪行脚をすることになるのはオレだぞ。それをおまえたちはオレにやれというのか?」
てな調子の、メンツの問題が持ち上がるからだ。
私にもおぼえがある。
とにかく、男が10人以上集まって何かを決める話になると、話は、プランの妥当性より会議参加者のメンツの問題、ないしはサル山メンバー相互のマウントの取り合いの話になる。必ずそうなる。
現政権は、特にその傾向が強い。
もうひとつ指摘しておきたいのは、男の子(いっそ「クソガキ」という言葉を使っても良い)の集団が何かを決める段になると、いつしか、焦点は「度胸比べ」に落着するということだ。
ホモソの会議では、「妥当な案」や、「穏当なプラン」よりも、「冒険的な結論」や、「男らしいチャレンジ」に人気が集まる。
「なにビビってんだよw」
とつっこまれそうな意見は、そもそも持ち出すことさえはばかられる。
むしろ
「そんな思い切ったこと言って大丈夫ですか」
みたいなあおり意見が無言の尊敬を集めるわけです。
そういう意味で、
「どっちにしたってある程度の感染は防げないわけだから、そこんとこは目ぇつぶって、ひとつ経済をバンバン回す方向で行こうじゃないか」
「そうだとも、長い目で見れば、そっちの方が人の命を救うことになる」
「勇気だよ勇気」
「そうだよな。ほっといても死ぬような年寄りが一年か二年早くくたばることを恐れて、経済をシュリンクさせたら、それこそ将来を担う若者や子供たちが中長期的に死ぬことになる」
「おっしゃる通りですね先生。政治家は時には臆病な国民が目を向けないところに向けて断を下さないといけない」
「オレはこの政策にクビをかけるつもりでいるよ」
「オレもコワいものはない」
って、これ、出入り前の反社会勢力の決起集会みたいだけど、昨今の閣議って、たぶんこんな空気なんだと思う。
一億総玉砕みたいなことを、たったの十数人で決められるのはいやだなあ。
だから、私は思いっきりビビった意見を繰り返しておくことにします。
ぼくは死にたくないです。
望むことはそれだけです。
(文・イラスト/小田嶋 隆)
■変更履歴
掲載当初、「人間を『死にそうな人』と『死にそうでない人』に分類したうえで、後者の命は救うに値しないということを暗に述べている」とありましたが、「後者」は「前者」の誤りです。お詫びして訂正します。[2020/07/17 17:45]
延々と続く無責任体制の空気はいつから始まった?
現状肯定の圧力に抗して5年間
「これはおかしい」と、声を上げ続けたコラムの集大成
「ア・ピース・オブ・警句」が書籍化です!
ア・ピース・オブ・警句
5年間の「空気の研究」 2015-2019
同じタイプの出来事が酔っぱらいのデジャブみたいに反復してきたこの5年の間に、自分が、五輪と政権に関しての細かいあれこれを、それこそ空気のようにほとんどすべて忘れている。
私たちはあまりにもよく似た事件の繰り返しに慣らされて、感覚を鈍磨させられてきた。
それが日本の私たちの、この5年間だった。
まとめて読んでみて、そのことがはじめてわかる。
別の言い方をすれば、私たちは、自分たちがいかに狂っていたのかを、その狂気の勤勉な記録者であったこの5年間のオダジマに教えてもらうという、得難い経験を本書から得ることになるわけだ。
ぜひ、読んで、ご自身の記憶の消えっぷりを確認してみてほしい。(まえがきより)
人気連載「ア・ピース・オブ・警句」の5年間の集大成、3月16日、満を持して刊行。
3月20日にはミシマ社さんから『小田嶋隆のコラムの切り口』も刊行されました。
この記事はシリーズ「小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 ~世間に転がる意味不明」に収容されています。WATCHすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。
Powered by リゾーム?