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 前回更新分の当欄コラムで、『13th -憲法修正第13条-』というNetflix制作の無料配信動画をご紹介したところ、その動画を見たという人々から様々な反響が寄せられた。

 大部分は、
 「見る価値のある映画だった」
 「合衆国の歴史を見る目が変わった」
 という感じのポジティブな反応だったのだが、一部には
 「内容が一方的だ」
 「プロパガンダ臭が強すぎる」

 といった見方を伝えてきた人々もいる。

 私個人としては、あの動画を「プロパガンダ」と断定してしまう評価には共感できないのだが、それはそれとして、自分の中に無い視点から作品を読み解く解釈を知ることができたのは収穫だった。ひとつの作品を、ネット上に散在する不特定多数の人々とともに同時視聴する経験の貴重さに、感銘を受けた。

 ただ、作品の評価とは別に、先日来アメリカで吹き荒れているBLM(Black Lives Matter)の運動について、
 「ここ100年ぐらい黒人が一生懸命、地道に重ねてきた実績と信用は、BLMで文化革命したい人たちにより相当毀損されたと思いますよ」
 という見方をする日本人がいることにはちょっと驚いた。

 このご意見は、私のツイッターのタイムライン上に流れてきたものなのだが、当該のツイートを発信したアカウントを特定してあげつらうのは、私の本意ではないので、当記事からリンクを張ることは控えておく。読者の皆さんは、こういう旨のツイートが投稿されて、それが500件以上リツイート(再拡散)され、700件以上の「いいね」を記録しているという事実を胸にとめておいてくださればそれで良い。

 私は、BLM運動の是非やその歴史的な意義について、ここで結論を出すつもりは持っていない。ただ、BLM全般を
 「単なる破壊行為」
 「法律違反」
 「左翼に扇動された文化革命運動」
 「偶発的な事件を契機とする感情的な暴発をとらえた暴力衝動」

 として矮小化してしまう見方は、大局を見失った見解であると、私が個人的にそう思っているということを、この場を借りてお伝えしておくにとどめたい。

 さて、冒頭にBLMの話をあえて持ってきたのは、今回主要な話題としてとりあげるつもりでいる徳島の女子高生暴行事件への反響のねじれ方が、BLMを対岸の火事として軽視する人々の見方と、よく似ている気がしたからだ。

 先に結論を述べれば、いずれのケースでも、「正義に酩酊することの危うさ」を指摘する立場から発言する人々は、結果として「被害者(あるいは差別・抑圧されている側)に帰責させる言説」を繰り返すということだ。

 典型的な悪文を書いてしまった。
 錯綜した論理をひとつの文の中に詰め込むと、こういう何重にもねじ曲がった悪文ができあがってくる。

 おそらく、ツイッター1回分の投稿(140文字)の中で、毎度毎度こみいった主張を展開している日常の習慣が、私をして悪文家に変じせしめてしまったのであろう。反省せねばならない。

 もっとも、悪文が悪文に着地するのには相応の理由がある。
 シンプルな観察や、端的な主張は悪文になりようがない。
 しかし、複雑な背景を踏まえた見解や、複数の相反する立場を含みおいた上で展開される主張は、短く端的に書こうと思えば思うほど、曲がりくねった針金を組み合わせたパズルみたいな悪文を形成せざるを得ない。

 その意味で、現代は悪文化していると申し上げて良い。